第一話 階段の怪談⑪

「あっ」

 織家が声を漏らしたのは、誰もいない壇上にどこからともなく人が現れたからだ。白髪に丸眼鏡の老人で、ストライプ柄のスーツを着ている。三年前、ここでの講義中に亡くなった桐原教授の霊で間違いない。

「教授の霊が現れたのか?」

「はい。相変わらず、何かぶつぶつ呟いてます」

「わかった。教授の口の動きが止まったら教えてくれ」

 天木はかばんから紙の束をクリップで留めたものを取り出し、それに目を通し始める。

「天木さん。それは?」

「桐原教授が亡くなった当日の講義内容の資料だ。これを入手するのに手間取ってな」

 必要な準備とは、これのことだったようだ。ここで織家は、天木が何をするつもりなのかを理解する。彼は、教授が途中で止めざるを得なかった講義を最後までやらせるつもりなのだ。

 教授が終始ぶつぶつしやべっている聞き取れない言葉は、講義の内容だったのだ。授業を完遂できなかったことが未練というのは、研究熱心で有名だったという桐原教授らしいとも思える。

「……私にも見せてください」

「ああ、もちろん」

 そして、たった二人を相手にした教授の講義は三十分ほど続けられた。声は小さくて聞こえないが、天木の用意した資料を見ればその熱のこもった講義内容はきちんと理解することができた。教授の口が止まったのを織家が確認すると、二人は立ち上がり拍手を送る。

「ありがとうございました、桐原教授。とても勉強になりました」

 天木の賛辞が届いたのか。はたまた、講義をやり遂げたという満足感がそうさせたのか。桐原教授は微笑みを一つ残し、空気と一体化するかのように壇上から姿を消していった。

「……いなくなりました」

 伝えると、天木は「そうか」とだけ呟いて資料を鞄に戻した。

 教授の霊は、話を聞いているふりをして上っ面の感想を述べるだけでも満足して消えてくれたかもしれない。だが、天木は手間を惜しまず当時の資料を探して内容をきちんと理解するように努めた。その手間に、死者へ対する天木なりの敬意が見えたような気がした。

「それで、考えてくれたか? 僕の事務所で働くこと」

 依頼を完遂することで、自身の心理的を取り除く技量を理解してもらえたと踏んだのだろう。天木は、バイトの打診を改めて行う。

 もちろん、それについては織家なりによく考えてみた。

 あこがれの人が一変、オカルトマニアの変な人だと判明した時は谷底に突き落とされたような気持ちだったが、彼は確かに織家のアパートから心理的瑕疵を取り除いてくれた。事故物件が増える一方の現代において、彼のような人は必要な存在なのかもしれない。

 織家は思う。天木ならば──を解決してくれるかもしれないと。だが、否定するように頭を横に振る。都合よく考えてはいけない。成り行きに任せて甘えてはいけない。

「……一つだけ、いてもいいですか?」

 おずおずと織家が問うと、天木は「ああ」と質問を待つ。

「天木さんは、どうしてそんなにオカルトが好きなんですか?」

 その質問に、天木は面食らったような顔をしていた。織家の前では常に余裕のある顔ばかりしていたので、意外な反応に織家の方も驚いてしまう。おかしなことは訊いていないはずなのだが。

「オカルト好き? 僕が?」

「はい……え、だってそうでしょう?」

「馬鹿を言うな」

 天木は鋭い眼光をもつて「僕は、オカルトがだ」と言ってのけた。

「……はっ、えっ? 嫌い? なら、何で事故物件に進んで首を突っ込むんですか? 事務所の二階があんな怪しげな本やじゆぶつめいたものであふれている理由は何なんですか?」

「僕はオカルトに『とても興味がある』とは言ったが、『好き』などと言った覚えはない。嫌いなものに立ち向かうには、皮肉にもその嫌いなものの豊富な知識が必要になる。アンチの方が詳しいとは、よく言ったものだ」

 嫌いだから、その嫌いなものに対抗するすべを身につけるために詳しくなった。最初こそ織家は混乱したが、頭の中で整理すると道理にはかなっていた。

 織家も、霊は嫌いである。久米川の霊に触れられそうになった時も、心臓が破裂するかのような思いをした。それだけではない。これまでも、霊に襲われた経験は一度や二度ではないのだ。恐ろしい体験をするたびに、何度も何度も自身に備わる霊感を呪ってきた。

 嫌いだから、抵抗する。それは、天木に霊が見えないからこそできること。あんなにおぞましいものが普段から見えていたら、聞こえていたら、感じていたら、対抗する気なんてはなから起きはしないのだ。

 だから──織家の結論は変わらない。

「……すみません。どうしても私は、霊が怖いです」

「そうか……わかった。無理に誘って悪かったな。織家くんが学業に励み、いい建築の担い手になれることを祈っているよ」

 それを別れの言葉に、天木は立ち上がり織家に背を向けた。その背中は少し寂しそうにも見えたが、拒絶した織家に声をかける権利はなかった。


    ◆


 二人が再会したのは、それからわずか一週間後のことである。

 天木建築設計の玄関引き戸を開くと、パソコンに向かっていた天木が顔を上げた。玄関にたたずむ織家は、赤いスーツケースを両手でつかんでいる。

「やあ、織家くん。空橋から話は聞いているぞ」

 わざとらしい笑顔で出迎える天木へ、織家は複雑なまなしを送った。

 新田は独身であり、そもそも家族がいない。そんな彼女は、現在警察に身柄をこうりゆうされている。となると、織家には家賃を払う相手がいなくなる。そのことを黒猫不動産の担当で、天木と知り合いだという空橋に相談した結果、すぐに出ていかなければならなくなってしまったのだ。大家の逮捕というのは前例のないことで、空橋も対処にそうとう頭を悩ませた末の判断だと聞かされている。

 しかし、いきなり出ていけと言われても織家には新たに敷金礼金を払いアパートを借りる余裕がない。元手があったとしても、再び連帯保証人になってもらえるよう叔父おじに頼み込む必要も出てくる。

 そこで空橋に提案されたのが、天木の下でバイトをすること。天木が織家をバイトに誘っていたことは、どうやら知っている様子だった。事務所で住み込みのバイトをすれば、次のアパートを借りる資金くらいすぐに貯まる。連帯保証人も、働く条件の一つとして天木に頼めばいいと提案されたのだ。織家に、他の選択肢はなかった。

「まあ、賃借人の住む権利は法律で守られているから、少なくともすぐに出ていく必要はないのだがな」

「……えっ?」

 では、なぜ空橋は織家にすぐ出なければならないと伝えたのか。──決まっている。空橋は裏で天木と結託して、織家にここでバイトをさせるべく動いていたのだ。

だますなんてひどいじゃないですか!」

「そう怒らなくてもいいだろう。遅かれ早かれ、あのアパートは出ることになるのだ。それに、ちゃんと建築の仕事も手伝ってもらう。織家くんにとっても、悪い経験にはならないはずだ」

 入学当初、ここで働くことは織家の夢だった。形はどうあれ、尊敬する建築士の下で学べるのなら確かに悪い話ではないのかもしれない。とはいえ、このようなやり方をされてはあっさり受け入れるのはどうにもに落ちない。

 それに、霊が怖いから働きたくないという気持ちは、もちろん今でも変わっていないのだ。

「……三か月だけです」

 三か月。それだけあれば次の入居先へ引っ越す資金くらいはどうにかなるだろうと見越して、織家はそう提案した。

「よし、決まりだ。これからよろしく頼むよ、織家くん」

 上司から差し伸べられた手を、織家は不本意ながらも握り返すのだった。

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事故物件探偵 建築士・天木悟の執心 皆藤黒助/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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