第一話 階段の怪談⑩
「荒木さんの悲鳴を聞いた久米川さんの霊は、一言『違う』と言って消えたそうです。久米川さんの目は先ほど説明したような状態なので、聴覚を頼りに捜し人ではないと判断したのでしょう。つまり、捜し人は男性ではないと考えられます」
天木は流し目を新田に向ける。彼女は
「久米川さんの霊が毎晩階段を上り目指していたのは、二〇三号室。そして、久米川さんが生きていた頃にそこに住んでいたのは、新田さんです。目の見えない彼が耳を頼りに捜しているのは、あなたなのでは?」
「ばっ、馬鹿言わないでっ! どうして久米川くんが私を捜してるのよ!」
「理由は、直接本人に
天木は腕時計に目を落とし「そろそろ、時間です」と告げると、階段から離れて織家の隣に移動した。
時刻は、午前0時前。──久米川の霊が、最後の一段を上る時間。
すぐそこにある階段に、黒い
その姿は新田にもしっかりと見えているようで、彼女は外壁に背を預けると
黒い靄は渦巻くようにして集まり、徐々に人の影のような形へと
久米川の霊は、歩みと呼ぶには不恰好な動きで二〇三号室へと近づく。背中で壁に張りつき息を殺す新田の前を抜けて、見えないながらも異様な空気だけは感じ取り押し黙っている天木の前を通り、自室の玄関前で震えている織家の前に立った。
見上げる位置から迫る顔は、荒い吐息が頰を
「いっ、いやっ……ッ!」
「ひっ、ひいィィィッ!」
甲高い悲鳴を上げたのは、新田だった。腰の抜けた彼女はその場に崩れ落ち、
四つん這いで逃げようとしている新田に追いつき、触れそうなくらい顔を近づけると、久米川の黒い顔の一部が裂け、口が現れる。彼は、口の端から血を滴らせながら笑っていた。
「──お前だ」
それは、地の底から上がってくるような低い声。それが、幾重にも繰り返される。
「お前だ。お前だ。お前だお前だお前だお前だオマエダオマエダオマエダ」
新田は頭を抱えて、ひたすらに「ごめんなさい! ごめんなさい!」と謝っていた。久米川の攻撃対象から外れた
久米川の霊の責め立てに耐えきれなくなったのか。それとも、経験したことのない恐怖で自分が何を言っているのかわからなくなっているのか。新田は、可能な限り縮こまったような体勢で打ち明ける。
「だって、久米川くん家賃全然払ってくれないから! いつもはぐらかすから! あなただって悪いのよ! 私は家賃を払ってもらいたいから外で待っていただけなのに『待ち伏せすんな!』って怒鳴ったりするから……だから……!」
「だから、突き飛ばしたんですね?」
新田の自白に天木が問いかけると、彼女は黙って
気がつけば、久米川の霊の姿は跡形もなく消えていた。辺りを包んでいた
天木が「霊は消えたのか?」と問う。彼に寄りかかっている織家は、黙ってこくりと
◆
それから、三日後のこと。
織家が天木と再会したのは、意外にも大学の構内でのことだった。『今、君の大学の大講義室にいる』とのメッセージを受け取った織家が講義終了後にそこへ行くと、広い室内の端の席に、天木が一人で座っていた。
「やあ、織家くん」
「……天木さん、何で大学に? 勝手に入ってきたんですか?」
「そんなわけがないだろう」
顔を
「また講義するために来たんですか?」
「忘れたのか? この大講義室の教授の霊を追い出すには、少々準備が必要だと言っただろう」
つまりは、その準備ができたから大学まで足を運んだとのこと。織家は、
「教授の霊はいるか?」
「んー……今のところはいません」
「では、少し待ってみよう」
天木は腕を組み、待つ体勢に入る。呼び出したのは、霊が見える織家に協力させるためなのだろう。進んで教授の霊を見たくはないので帰ると言うこともできたのだが、いろいろと世話になったのは事実であり、教授の霊をどうにかしてほしいと頼んだのも織家自身である。なので、黙って天木の隣の席に腰を下ろした。
教授の霊が現れる前に、織家は結局あの後訊けずじまいだったことを尋ねてみる。
「天木さんは、大家さんが久米川さんを殺したって最初から気づいていたんですか?」
「仕事で疲れているとはいえ、若い男が階段から足を滑らせて
後半は冗談だったのか、天木は
天木の言う通り、彼は警察ではなく建築士だ。約一年前にどのような捜査が行われたのかはわからないが、新田の犯した罪は運よく警察の手を逃れている。
「明確な物的証拠があるわけでもない以上、新田さんを警察に突き出すのは難しいだろう」
「ああ、それなら解決済みですよ」
織家は複雑な表情で「昨日、自首したみたいですから」と天木に伝えた。
「それはまた、どういうことだ?」
「だってあの日以降、久米川さんの霊はずっと大家さんの部屋の前に立っているんですもん。精神的に追い詰められもしますよ」
久米川は目が見えなかったからこそ、新田は今も二〇三号室にいると思い込んでいた。だが三日前、悲鳴を上げたことで新田は彼に見つかってしまった。居場所がわかれば久米川の霊が痛めた足を
新田が自首して以降は、一〇一号室前にいた久米川の姿も消えている。恨みが晴れて成仏したのか。それとも──新田に取り
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