第一話 階段の怪談⑩

「荒木さんの悲鳴を聞いた久米川さんの霊は、一言『違う』と言って消えたそうです。久米川さんの目は先ほど説明したような状態なので、聴覚を頼りに捜し人ではないと判断したのでしょう。つまり、捜し人は男性ではないと考えられます」

 天木は流し目を新田に向ける。彼女はうつむき、押し黙っていた。その表情に、織家のよく知る人の良さそうな笑みは欠片かけらも残っていない。

「久米川さんの霊が毎晩階段を上り目指していたのは、二〇三号室。そして、久米川さんが生きていた頃にそこに住んでいたのは、新田さんです。目の見えない彼が耳を頼りに捜しているのは、あなたなのでは?」

「ばっ、馬鹿言わないでっ! どうして久米川くんが私を捜してるのよ!」

「理由は、直接本人にいてみればいい」

 天木は腕時計に目を落とし「そろそろ、時間です」と告げると、階段から離れて織家の隣に移動した。

 時刻は、午前0時前。──久米川の霊が、最後の一段を上る時間。

 すぐそこにある階段に、黒いもやのようなものが出現した。途端に織家は全身が総毛立ち、二階であるここから飛び降りてでも逃げ出したい衝動に駆られる。それなのに、意思に反して体はピクリとも動かず、まばたきすら許されない目はその黒い靄をいやおうなしにとらえ続ける。

 その姿は新田にもしっかりと見えているようで、彼女は外壁に背を預けるときようがくの表情のまま固まっていた。

 黒い靄は渦巻くようにして集まり、徐々に人の影のような形へとへんぼうする。その影──久米川は、おかしな形に折れ曲がった左足を引きりながら、ついに最後の一段を上り切る。真っ黒の顔に二つ浮き出た眼球には、荒木の証言通りガラス片がいくつも突き刺さっていた。

 久米川の霊は、歩みと呼ぶには不恰好な動きで二〇三号室へと近づく。背中で壁に張りつき息を殺す新田の前を抜けて、見えないながらも異様な空気だけは感じ取り押し黙っている天木の前を通り、自室の玄関前で震えている織家の前に立った。

 見上げる位置から迫る顔は、荒い吐息が頰をでる距離まで近づく。ガラス片の刺さった眼球が片方落ち、空洞となったがんから流れる血が織家の顔をらした。

「いっ、いやっ……ッ!」

 のどの奥から出たか細い悲鳴に反応して、久米川の霊はその手を織家へ伸ばす。──だが、耐え切れなくなったのは織家だけではなかった。

「ひっ、ひいィィィッ!」

 甲高い悲鳴を上げたのは、新田だった。腰の抜けた彼女はその場に崩れ落ち、うようにして階段を目指している。声に反応した久米川は、織家に触れる寸前だった手を止めて首を九十度回した。見えていないはずの眼球は、新田をしっかりと捉えているように思えた。

 四つん這いで逃げようとしている新田に追いつき、触れそうなくらい顔を近づけると、久米川の黒い顔の一部が裂け、口が現れる。彼は、口の端から血を滴らせながら笑っていた。

「──お前だ」

 それは、地の底から上がってくるような低い声。それが、幾重にも繰り返される。

「お前だ。お前だ。お前だお前だお前だお前だオマエダオマエダオマエダ」

 新田は頭を抱えて、ひたすらに「ごめんなさい! ごめんなさい!」と謝っていた。久米川の攻撃対象から外れたあんで、織家は足に力が入らなくなる。倒れかけたところを、隣にいた天木に支えられた。

 久米川の霊の責め立てに耐えきれなくなったのか。それとも、経験したことのない恐怖で自分が何を言っているのかわからなくなっているのか。新田は、可能な限り縮こまったような体勢で打ち明ける。

「だって、久米川くん家賃全然払ってくれないから! いつもはぐらかすから! あなただって悪いのよ! 私は家賃を払ってもらいたいから外で待っていただけなのに『待ち伏せすんな!』って怒鳴ったりするから……だから……!」

「だから、突き飛ばしたんですね?」

 新田の自白に天木が問いかけると、彼女は黙ってうなれた。

 気がつけば、久米川の霊の姿は跡形もなく消えていた。辺りを包んでいたまがまがしい空気が噓のように晴れ、住宅地に静かな夜が戻っている。

 天木が「霊は消えたのか?」と問う。彼に寄りかかっている織家は、黙ってこくりとうなずいた。余程精神的に参ったのだろう。新田は久米川が消えた後も両耳をふさぎ、念仏のように「ごめんなさい」と繰り返しつぶやいていた。


    ◆


 それから、三日後のこと。

 織家が天木と再会したのは、意外にも大学の構内でのことだった。『今、君の大学の大講義室にいる』とのメッセージを受け取った織家が講義終了後にそこへ行くと、広い室内の端の席に、天木が一人で座っていた。

「やあ、織家くん」

「……天木さん、何で大学に? 勝手に入ってきたんですか?」

「そんなわけがないだろう」

 顔をしかめながら、天木は首から下げている大学の許可証を見せる。

「また講義するために来たんですか?」

「忘れたのか? この大講義室の教授の霊を追い出すには、少々準備が必要だと言っただろう」

 つまりは、その準備ができたから大学まで足を運んだとのこと。織家は、にされたものだとばかり思っていた。

「教授の霊はいるか?」

「んー……今のところはいません」

「では、少し待ってみよう」

 天木は腕を組み、待つ体勢に入る。呼び出したのは、霊が見える織家に協力させるためなのだろう。進んで教授の霊を見たくはないので帰ると言うこともできたのだが、いろいろと世話になったのは事実であり、教授の霊をどうにかしてほしいと頼んだのも織家自身である。なので、黙って天木の隣の席に腰を下ろした。

 教授の霊が現れる前に、織家は結局あの後訊けずじまいだったことを尋ねてみる。

「天木さんは、大家さんが久米川さんを殺したって最初から気づいていたんですか?」

「仕事で疲れているとはいえ、若い男が階段から足を滑らせてとつに受け身も取れないというのは、少し妙だとは思っていた。だが、そこを追及するのは警察の仕事であり、僕の仕事ではない。今回の僕の仕事は、久米川さんの霊が新田さんに会いたがっていることを突き止め、それを手助けすることだった。未練を取り除けば、霊は出なくなることが多いからな。久米川さんが良くしてくれた新田さんにお礼を伝えたくて彷徨さまよっていたなんてハートフルな結末も多少は想像していたが、そう都合よくはいかないものだ」

 後半は冗談だったのか、天木は悪戯いたずらな笑みを浮かべている。

 天木の言う通り、彼は警察ではなく建築士だ。約一年前にどのような捜査が行われたのかはわからないが、新田の犯した罪は運よく警察の手を逃れている。

「明確な物的証拠があるわけでもない以上、新田さんを警察に突き出すのは難しいだろう」

「ああ、それなら解決済みですよ」

 織家は複雑な表情で「昨日、自首したみたいですから」と天木に伝えた。

「それはまた、どういうことだ?」

「だってあの日以降、久米川さんの霊はずっと大家さんの部屋の前に立っているんですもん。精神的に追い詰められもしますよ」

 久米川は目が見えなかったからこそ、新田は今も二〇三号室にいると思い込んでいた。だが三日前、悲鳴を上げたことで新田は彼に見つかってしまった。居場所がわかれば久米川の霊が痛めた足をかばいながら階段を上る必要はなくなり、直接新田の部屋に出向くようになるのは当然のこと。

 新田が自首して以降は、一〇一号室前にいた久米川の姿も消えている。恨みが晴れて成仏したのか。それとも──新田に取りき、今も一緒にいるのか。真相は、新田にしかわからない。

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