第一話 階段の怪談⑨


    ◆


 そして、決戦の夜が訪れる。

 織家の下へ天木から『これから向かう』と連絡が入ったのは、午後十一時頃のこと。部屋に招き入れることになるだろうと思い、織家は前もって入念に掃除をしていた。だが、いざ天木が来るとなるとそわそわして落ち着かず、もう一度掃除機をかけ直し始める。

 他の住人が二〇三号室から一番離れた一〇一号室の新田だけなので、夜中でも気兼ねなく掃除機をかけたり洗濯機を回したりできるのは、ここに住む数少ない利点の一つだった。

 敷居の溝に見つけたほこりがなかなか吸い出せず格闘している時──不意に、視線を感じる。反射的に振り返ると、玄関には一人の女性が立っていた。

「……なんだ、お母さんか。びっくりさせないでよ、もう」

 音もなく現れた織家の母は、何を言うでもなくただそこに立ち、微笑みかけているだけ。近づいて手を伸ばすと、予想に反せず織家の手は空しく空を切った。

 織家の家は、父子家庭である。母を失った十歳の頃から、織家には時折母の霊が見えることがあった。霊感を持っていてよかったと思える唯一の点は、こうしてたまに母と会えることだった。霊とはいえ会うことができるからこそ、織家は生身の母に会えずともどうにか前向きに今日まで生き抜くことができたのだ。

 母はウェーブのかかった髪を纏めて左肩から前に垂らし、ボーダーのシャツに濃い緑色のロングスカートを合わせていた。現れるたびに着ている服が異なるが、霊になってもお洒落しやれはできるものなのか。そんなことは、実際に亡くなってみなければわからないのだろう。

「お母さん、心配して出てきてくれたの?」

 織家は母を、自身の守護霊なのだと勝手に解釈している。とはいっても、織家の霊関係のトラブルを母が跳ねのけてくれたというようなことは一度もない。彼女は不意に現れ、微笑みかけ、消えていくだけ。話しかけても、意思疎通はできない。

 それでも、織家にとって毎回急に訪れる母との束の間の時はとてもうれしいものだった。

「大丈夫だよ、お母さん。今から、天木さんって人が来てくれるから。実際に会って話してみると何か思ってた人と全然違ったけど、悪い人じゃないと思うから」

「それはどうも」

 返事をしたのは、母ではない。母の透ける体の向こうにある、玄関ドアの外からだ。その後、ノックもなしにドアが開かれ、それに合わせるようにして母の霊は煙のように姿を消してしまった。

「……勝手に開けないでくださいよ、天木さん」

「すまない。だが、女性の一人暮らしなのだから、きちんとかぎはかけておくべきだぞ」

 玄関に足を踏み入れると、天木は金属のきしむ嫌な音のするドアを閉じた。

「ところで、君は一体誰と話していたんだ?」

 織家の手にスマホは握られていないので、電話でないことは明白だ。疑問に思うのは当然だろう。霊感持ちであることを知られている天木になら、別に隠す必要もない。

「ついさっきまで、ここに母が立っていたんです。私、十歳の頃に母親を失っているんですよ。その頃から、たまに母の霊が見えることがあるんです」

「それは、家族水入らずのタイミングで邪魔をしてしまったな」

 霊と話していたなんて、天木以外に言えば失笑されることだろう。今まで隠してきたからこそ、誰かに霊の話をすんなり受け入れてもらえるのは新鮮であり、どうにもこそばゆく感じてしまう。

「さて、時間がないな」

 天木は自身の左手首に巻いている高そうな腕時計に目を落とす。時刻は、午後十一時半を過ぎていた。久米川の霊が現れるまで、あと約三十分。

「作戦を実行に移すぞ。上手うまくいけば、全て丸く収まるはずだ」


    ◆


「夜分にすみません、新田さん。西洋だんの取っ手が取れちゃいました!」

 織家が電話で新田にそう伝えると、わずか数十秒後にはパジャマ姿の彼女が織家の部屋を訪れた。しかし、ドアを開けた織家の背後に見える西洋簞笥に破損は見受けられない。

「……ちょっと、どういうこと? 悪戯いたずらにしたってひどいんじゃないの、紗奈ちゃん」

「すみません。でも、二階まで上がってきてもらうのに、他にいい方法が思いつかなかったんです」

 はっとなった新田は、織家の部屋の壁掛け時計をのぞき見る。時刻は、十一時五十分を過ぎた辺り。玄関を出て慌てて階段を下りようとする新田の前に、屋外階段を上ってきた天木が立ちふさがった。

「……退いてくれる? お兄さん。こんなかつこうじゃあ、風邪引いちゃうから」

「その前に、いくつか質問をさせてください。すぐ済みますので」

 天木は、有無を言わさず新田に問いかける。

「新田さんは、久米川さんが亡くなった後で二階から一階に引っ越したんですよね?」

「そうよ」

「具体的に言えば、二〇三号室から最も離れた一〇一号室に引っ越したわけですよね?」

「ええ。ひざが痛くてね。部屋は別に一階ならどこでもよかったんだけど」

「その割には、先程軽快に階段を駆け上がっていたようですが」

 痛いところを突かれ、新田が押し黙る。天木は「まあ、それはいつたん置いておいて」と話を進めた。

「新田さんは、初めから気づいていたんじゃないですか? 階段に現れる霊の正体が無縁墓など関係なく、久米川さんで間違いないことに」

 天木の指摘に、新田の目が僅かに泳いだのを織家は見逃さなかった。

「無縁墓があるかもしれないというのは、実際に抱えていた不安だったのでしょう。現に、おかしな空間が建設されているわけですからね。屋外階段に久米川さんの霊が出るようになって以降、その話題が上がるとあなたは謎スペースの無縁墓の話を隠れみのにするようになった」

「隠れ蓑? 私が何のために?」

「例えば、久米川さんの死について詳しく調べられると、まずいことがあるからとかですかね?」

 天木の挑発とも取れる言動に、かろうじて笑顔を保っていた新田の表情が崩れ始める。

「謎スペースの石は、墓石ではない。調べた結果、単なる古いきようかいぐいでした。となれば、階段の霊は久米川さんで確定する。その証拠の一つが、足跡です」

「足跡?」と、織家が疑問を吐露する。

「ああ。思い返してみてくれ。階段についていた足跡は、全てだっただろう」

 言われて、織家は新田の話を思い出す。階段から落ちた久米川の片足は、あらぬ方向にじ曲がっていたと。足跡が右足だけなのは、彼が右足しか使えない状態であるから。毎晩一段しか上がらないのは、負傷した体ではそれが精一杯だからではないだろうか。もっとも、霊体に生前のダメージが蓄積するのかは知りようのない部分ではあるが。

 出現時刻が午前0時頃なのも、その辺りが死亡時刻だからだと推測できる。久米川は毎日日をまたぐような時間帯に帰ってきていたと新田は言っていたので、つじつまも合う。

「新田さん。あなたが階段から一番離れた位置にある一〇一号室に引っ越したのは、膝が痛いからではない。あなたは階段の霊が久米川さんだといち早く察したから、逃げ出したのではないですか?」

 それまで静かに聞いていた新田は、ふーっと長い息を吐くとあきらめたような様子で口を開いた。

「……確かに、お兄さんの言う通り。私も階段の足跡が怖くて、上り切る前に逃げ出したわ。家財道具を回収せず置いたままにしたのは、早いうちに入居者を見つけたかったからよ。二階に人がいれば、久米川くんの霊はそっちにきつけられると思ったからね」

 思えば、新田は謎スペースを調べるのを解体費や修繕費を理由に拒んだりなど、金銭面にあまり余裕がない様子だった。新たに家財道具を揃え直すより、引っ越し業者に二階から運んでもらう方が費用は格段に安いはず。それなのに二〇三号室に一切を置いたままにしたのは、それを入居の特典にして織家のような借り手を誘い出し、霊の気を向けさせるためだったのだ。

「そんな……酷い」

 自分がおとりにされていたことを知った織家は、ぽつりとそう零す。そんな彼女を、新田はきっとにらみつけた。

「酷い? 紗奈ちゃんは事故物件だってことを承知で借りたんでしょ? 家賃も馬鹿みたいに安いんだから、デメリットはあって当然じゃない。自分だけ被害者面しないでくれる? 私だって、被害者なんだから!」

 事故物件は、入居者などが起こした事故や事件によりその価値を大幅に下げられてしまう。久米川の事故死により不動産が大幅に価値を失っている以上、新田の自分が被害者だという言い分も間違ってはいないのだろう。

 何も言い返せない織家に代わり、天木が口を開く。

「実は今日の日中、僕たちは二〇三号室の前の住人の荒木さんから話を聞いてきました。彼のところに現れた久米川さんの霊の目には、無数のガラス片が刺さっていたそうです」

「ガラス片?」と、新田がまゆを寄せる。

「おそらくは、久米川さんの眼鏡の破片でしょう。眼鏡のレンズは近年プラスチック製のものが主流ですが、視覚の情報を重要視する職種の人にはより見え方のれいなガラスレンズが今でも好まれる傾向にあります。僕の知り合いのデザイナーにも、ガラスレンズの眼鏡を愛用している人は大勢いますよ。若手のアニメーターだった久米川さんも、そうだったのでしょう」

 久米川は、屋外階段から落下して亡くなっている。その時の衝撃で割れたガラスレンズの破片が目に刺さっていたとしても、おかしくはない。想像するとあまりに痛々しく、織家は思わず自身の目を押えてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る