第一話 階段の怪談⑧


    ◆


 応接スペースに置かれた赤い革張りの三人掛けソファーに座っているのは、若い男性。短い金髪で、顔はこわもてだ。服装も金色がちりばめられた派手なデザインのジャージで、チンピラのような印象を織家は受けた。

 彼は荒木と名乗った。織家が現在住んでいるコーポ松風の二〇三号室に、約半年前に入居していた人物である。今日織家が呼び出されたのは、荒木と連絡がつき直接話を聞けることになったからだ。

 キョロキョロと事務所内を見渡している荒木は、どうにも落ち着かない様子である。

「それにしても、よく見つけられましたね」

 給仕スペースで荒木に出す茶菓子の用意を手伝いながら、織家は隣でコーヒーを白いカップに注いでいる天木に小声で話しかけた。

「コーポ松風が仲介を委託している黒猫不動産を経営している空橋とは、むかしみでね。織家くんも、会ったことがあるだろう?」

 もちろん、担当してもらったので面識はあった。

「経営ってことは、空橋さんがあの不動産屋の社長なんですね。あんなに若いのに」

「あいつの見た目は詐欺のようなものだ。僕と同い年で、今年三十二になる」

 そう語る天木も三十二歳には見えないので、織家に言わせればどちらも詐欺のようなものだった。

「ともかく、空橋に契約時の電話番号を探してもらい、連絡を取ることができたんだ」

「でも、よく来てくれましたね」

「まあ、お礼は渡すことになっているからな」

 なるほどと納得するのと同時に、金銭の話題が出たことで織家は自分のアパートの怪現象解決に天木が無償で動いてくれていることを思い出す。

「……一応言っておきますけど、私はお金持ってないですよ?」

「苦学生から金をむしり取るほど、生活には困っていない」

 とげのある言い方だったが、織家にとってはありがたい言葉に変わりはなかった。そもそも、これは天木が自身の事故物件解決能力を証明するために自主的に手を出したことなのだから、織家が後ろめたさを感じる必要はないのかもしれない。

 三人分のコーヒーと茶菓子をお盆に載せて、二人は荒木の下へ向かった。

 荒木の対面に置かれた同じ赤色の一人掛けソファーにそれぞれ座り、天木が茶封筒をガラス天板のローテーブルの上に差し出す。すると荒木は、それをちらりと見て「あんまり思い出したくねーんだけどさ」と前置きしてから話し始めた。

 荒木が二〇三号室を借りていたのは、半年ほど前。期間は一か月間ほどだった。屋外階段で人が亡くなっていることは説明されたが、織家と同様に家賃の安さと家材道具付きにかれて契約したそうだ。

 異変に気づいたのは、五日目のこと。外階段に、黒い右足の足跡がついているのだ。織家が現在経験している怪現象と同じく、それは毎晩一段ずつ階段を上ってくる。怖くないと言えば噓になるが、あまりにもはっきりとした足跡だったので、荒木はたちの悪い悪戯いたずらだと思っていたそうだ。

 そして、足跡が階段を上り切る日の夜。ついにそれは現れた。

 妙な息苦しさを感じて目を覚ますと、体はピクリとも動かない。人生初の金縛りに戸惑っていると、誰かが部屋に入ってきた気配を感じた。その何者かは、一歩一歩をゆっくりと踏み締めながら距離を詰めてくる。叫びたくても、のどが縫い合わされてしまったかのように声が出ない。

 ついに、それは荒木の枕元までやって来た。黒いひとがたのシルエットが、うなれるようにして彼の顔をのぞき込む。

「顔は……わからなかった。黒いもやみたいになっていたんだ。でも、目だけはしっかり見えたんだよ。あいつの目玉には小さなガラス片がいくつも刺さっていて、そこからボタボタと血の涙を流していた」

 語る荒木は、震えを誤魔化すようにこぶしを強く握っていた。

 そのグロテスクな目を見た荒木は、途端に喉の硬直が解けて悲鳴を上げたそうだ。霊はひるんだりなどしなかったが、ゆっくりと頭を起こすと「違う」とだけ言い残して消えてしまったのだという。当然その日以降アパートに戻る気にはなれず、契約からわずかひと月で退居する流れとなった。

「俺の話は以上だ」

「ありがとう。参考になったよ」

 天木の礼を仕事の完遂と受け取り、荒木はテーブルの上の茶封筒を乱暴に摑むとそそくさと事務所を出ていった。

 二人きりに戻った事務所内で、荒木の話を頭の中でまとめていた織家は、ふと疑問に思う。霊の残した『違う』という言葉は、一体どういう意味なのだろう。霊は、誰かを探しているのだろうか。

「さて」不意に、天木が手をパチンとたたく。「実は、君に見せたいものがある」

 ソファーから立ち上がった天木が自身の仕事用のデスクから持ってきたのは、A3サイズの紙。そこには、地図のようなものが描かれている。

「これは?」

こうだ。わかりやすく言えば、土地だけの地図といったところか。書いてある数字は住所ではなく、土地に与えられる地番と呼ばれるものだ」

 初めて見るそれを、織家は繁々と眺める。

「それで、これがどうしたんですか?」

「それは古い公図で、コーポ松風が立つ前の状態の土地が載っている。ちょうどこの辺りだ」

 天木が指先で示した辺りを見て、織家はまゆを寄せた。

「なんか……土地が狭くないですか?」

 公図の縮尺はわからないが、面する道路の道幅と比べることで敷地が明らかに狭いことは織家でも見て取ることができた。天木は「その通り」と満足そうにうなずく。

「いいか織家くん。コーポ松風の土地は、元々よんひつだった土地をいつぴつがつぴつした土地だったんだ」

 天木の言う『筆』とは、土地を数える単位である。そして、合筆とは複数の土地を合わせて一筆に纏めることを指す。

「えっと……つまり、どういうことでしょうか?」

「これを公図に重ねてみればわかる」

 そう言って天木が織家に差し出したのは、コーポ松風を真上から写した衛星写真だった。縮尺を公図に合わせて印刷したものらしく、重ねて照明に掲げると公図の外周の線がピタリと敷地に重なり合う。

 そして、合筆前の四筆の土地が交わる十字の中心は──謎スペースのある部分と一致していた。

 天木は、自身の導き出した結論を述べる。

「謎スペースの中身は、無縁仏の墓石ではない。あの石は、ただのだ」

 きようかいぐいとは、敷地の分かれ目に打ちつけられる目印のことである。現在では金属製の一目でそれとわかるものが主流となっているが、古い住宅地などではそもそも境界杭がないなんてことも珍しくはない。あったとしても、杭の形は様々だ。

 十字や矢印が頭に彫り込まれたコンクリート杭に、頭の赤いプラスチック杭。大正から戦後にかけては、御影石などがよく使われていた。無縁墓の正体も、このバリエーション豊かな杭のうちの一つだろうと天木は説明する。

「アパートを建てる時に、誰も気づかなかったんですか?」

「見た目はただの石だからな。建築業者がわざわざ合筆前の状態まで調べる必要はないし、ただの石だろうと思ってもかつなことは言えなかったのかもしれない。結局は、掘ってみなければわからないのだから。そして、万が一そこから何か出てきてしまえば、見て見ぬふりはできなくなってしまう」

 天木の結論に、織家は異論を唱えない。最初から織家の霊感は、あの謎スペースに何も反応していなかったのだから。怪しいと思っておいて何だが、無縁墓でしたという結論を出されるよりも、違っていたと示される方が織家としてはすんなりと受け入れることができた。

「霊の正体は、これで決まったな」

 天木の言う通りだ。無縁墓の説が消えた今、階段に現れる霊の正体は一人に絞られる。そこで転落死した、久米川である。

「天木さん。久米川さんの霊は今夜で階段を上り切ってしまいます。私は一体どうすれば……」

 今し方聞いたばかりである荒木の体験談が、織家の頭の中によみがえる。顔を覗き込む、無数のガラス片が突き刺さった目──想像するだけで、全身に悪寒が走る。

 階段に板を置く策を再び使うこともできる。もしくは、今夜はいっそ家を空けるという手もあるだろう。

 しかし、それは結局問題を先延ばしにするだけで、何の解決にも結びつかない。とはいえ、コーポ松風を出て新しい家を探すほどの金銭的余裕など織家にはなかった。

「心配するな、織家くん」

 一人悩んでいる織家へ、天木は声をかける。

「策は纏まった。今夜でケリをつけよう」

 その力強い言葉に、織家は冷え切った全身の血液が温かさを取り戻していくような気がした。オカルト好きの変わり者で、織家が思い描いていた人物像とは異なってこそいたが──天木はきっと、悪い人ではないのだろう。

 織家は伏せていた頭を起こすと、決意を固めたまなしで「わかりました」と頷いた。

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