第一話 階段の怪談④

「部屋を内見した時は何も見えなかったから、大丈夫だと思って借りたんです」

「つまり、住み始めて以降に何かを目撃したということか?」

 何がそんなにうれしいのか、天木の口元はほころんでいる。あこがれの人がオカルト趣味だったといういまだに上手うまく吞み込めていない事実を前に軽いためいきを落としつつ、織家は自身の体験談を語り聞かせた。

「毎晩午前0時頃になると……屋外階段を、誰かが一段だけ上るんです」

 その異変に気づいたのは、住み始めて三日目のことだった。

 びついた階段の三段目に、よく見ると黒い汚れのようなものがついている。不思議に思って目を近づけてみると、それは──人間の素足の足跡だった。その時はさほど気にしなかったが、翌朝になると三段目の足跡は消えており、代わりに四段目に同じ足跡が移動していた。

 このアパートで初めて不可解な現象を認識した時のことを聞かせると、天木は興味深そうに自身のあごの辺りをさすった。

「それは、他の住人の足跡ではないのか?」

「今このアパートに住んでいるのは、二階東側の二〇三号室の私と、一階西側の一〇一号室の大家さんだけです。なので、階段を利用するのは二階を借りている私だけのはずなんです」

「なるほど。その足跡がまだ残っているのなら、ぜひ僕にも見せてほしいのだが」

「わかりました」

 織家が先導して屋外階段の一段目に足をかけると、ギイときしむ音がした。一段一段踏み締めるたびに、錆の粉がパラパラと下に落ちていく。階段を上り切った織家が「ここです」と指さしたのは、十五段目のすり際だった。そこには、黒々とした人間の右側の素足の跡が魚拓のようにくっきりと残されている。

「おお、これはすごい! 霊感のない僕にも見えるぞ!」

 天木は興奮気味でスマホを取り出すと、写真を何枚も撮り始めた。街中で人懐っこい猫と遭遇した時のような反応に、織家は思わずまゆひそめる。

 ひとしきり撮影を終えると、天木はちゆうちよなく足跡を人差し指でこすった。気持ち悪いとは思わないのだろうかと、何も触れていない織家の方が嫌な顔をしてしまう。

 天木の指の腹は、木炭に触れた後のように黒くなっていた。高そうなグレーのハンカチで指をぬぐうと、彼は「いい怪現象だ」と評論家のようなことをつぶやく。

「階段を上るのは午前0時頃と言っていたな。その根拠は?」

「音です。私も足跡がいつ移動するのか気になっていたので、ドアに耳を当てて音を聞いてみたんです。そうしたら、決まって午前0時頃にドアの向こうから嫌な気配がして、屋外階段が軋む音が聞こえることに気づきまして」

「上るのが何者なのか、直接確かめはしなかったのか?」

「そんなこと、怖くてできるわけないじゃないですか」

 自ら進んで霊と鉢合わせするなど、織家に言わせれば自殺行為である。しかしながら、おびえているだけでは解決しないことも事実だった。

「階段は全部で十七段なので、この足跡の主はあと二日で階段を上り切ってしまいます。そうしたら私、一体何をされるんでしょうか……。ああ、やっぱり事故物件なんてやめとけばよかった!」

 安らげる場所であるべき家がストレスの温床になっているという嘆かわしい状況に、織家はたまらず頭を抱えた。

「落ち込んでいるところ悪いのだが、まだ肝心な部分を聞いていないぞ」

 肝心な部分とは何か。決まっている。コーポ松風が事故物件と呼ばれる所以ゆえんである。

「織家くん。君の部屋では、死人が出ているという認識でいいのか?」

「……いいえ。私の部屋ではなく、この屋外階段から落ちた人が亡くなっています」

 部屋で亡くなっていたのなら、いくら安かろうが織家も借りたりはしなかっただろう。

「転落死か。それは事故と考えていいのか?」

「そうみたいです。賃貸契約を結ぶ時に不動産屋の人が教えてくれたんですが、亡くなったのは私の隣の二〇二号室を借りていた若い男性で、今から一年前くらいの出来事らしいです」

「では、階段を上る者の正体はその男性の霊だと考えてよさそうだな」

 順当に考えれば、当然そうなるだろう。事故物件に霊が出るとすれば、それはやはり事故で亡くなった人の霊と考えるのが自然である。しかし、このアパートには事故物件であることとは別に、他にも不自然な点が存在した。

 どう説明すればいいものか悩みもごもごしていた織家は、「見てもらった方が早いです」と階段を下りる。天木を連れて、そのまま建物の東側へと回った。

「これは……妙だな」

 目を見張る天木は、一目でアパートのおかしなところに気づいたようだった。これは何も、彼が建築を生業なりわいとしているからこそ見抜けたというわけではない。誰がどう見ても、あからさまにおかしいのだ。

 コーポ松風は、真上から見れば長方形をしている。しかし、一階部分の東側の角のみが、どういうわけか一部出っ張っているのだ。出っ張りの大きさは、畳半畳ほど。そのスペースもきっちり基礎が回してあり、他の箇所と同じ外壁で施工されている。トタン屋根の高さは、百八十センチはありそうな天木の背と同じくらいだった。

「この謎スペースなんですけど、見ての通り外から入れるドアのようなものはついていません」

「ならば、中から使うためのスペースなのだろう。アパートで一室だけ他の部屋にはないスペースがあるというのは、確かに珍しいが。東側の一階に面しているということは……一〇三号室になるな」

「それが、一〇三号室内から見てもこの部分は単なる壁になっているんですよ」

 織家の証言に、天木は真っ先によぎったのだろう疑問を尋ねた。

「ん? 君は一〇三号室に入ったことがあるのか?」

「はい。内見の時に、二〇三号室以外も見せてもらったんです」

 謎スペースの存在には織家も初見の段階で気づいており、一〇三号室内を見た時におかしいなと感じたので間違いない。つまり、この謎スペースはとなっているのだ。

 天木は興味深そうに、謎スペースを繁々と眺めている。

「外壁の劣化具合からして、アパートの新築と同時に造られているようだな。二階の排水管を下ろすパイプスペースにしては広すぎるし……中に何か入っているのか?」

 コンコンと、天木が壁をノックする。当然ながら、返事はない。

「特に嫌な気配なんかは感じないんですけど……不気味なんですよね」

「目の前に開かない箱があれば、人はその中身に勝手な想像を膨らませるものだろう」

 バラエティ番組の企画で、視聴者にしか中身がわからない箱の中に演者が手を入れて、その反応を楽しむというものがある。触れるまで推測することすらできない演者は、ついつい恐ろしい中身を想像してしまい怖がるのがお決まりである。中身を確認できない謎スペースに感じる不気味さも、それに近いものなのかもしれない。

 天木が、ここまでの情報を簡潔にまとめる。

「つまり、階段を上がってくる者の正体は階段から転落死した男性ではなく、この謎スペースの中にある何かが絡んでいる可能性も捨てきれないということか。何にせよ、まずは大家さんに話を聞くのが早そうだな」

「そうなんですけど……どうやら、今日は留守みたいでして」

 駐車場に大家の車であるスカイブルーの軽自動車はなく、加えて大家は一人暮らしである。一〇一号室を訪ねても、無意味なことは明確だった。天木は残念そうに口をへの字に曲げると「仕方ない。明日あした出直すとしよう」と帰宅をほのめかす。

「あっ……」

 織家は思わず口を開いた。しかし、言葉が出てこない。

 正直、天木にまだ帰ってほしくないのだ。空はオレンジ色から紺色へと移り変わりつつあり、やがて夜が──霊の時間が訪れる。

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