第一話 階段の怪談②
即ち──幽霊。それらが見えてしまうことこそ、織家が長年抱えている悩みだった。
きっかけは、三歳の頃。織家は覚えていないが、公園の遊具から転げ落ちて一週間ほど生死の境を
霊が見えて得することも、あるにはある。しかし、大半は損ばかりだ。あまりにはっきり見えるものだから、先ほどのように生きている人間と見間違うことも多々ある。この悩みを人に話せば、嫌な顔をされるか鼻先で笑われるかのどちらかのリアクションしか返ってきた
喫茶店のバイトを早々にクビになったのも、織家が他の人には見えない客を持て成したことが原因だった。それは
霊のせいで台無しにされた思い出は、数え始めるときりがない。そして今日も、また一つ増えそうだ。よりにもよって、ずっと楽しみにしていた天木の講義が行われる壇上に出現してしまうとは。そこはいくらなんでも邪魔すぎる。
白髪の男性は、頭を垂れたまま動かなかった。しかし、よく見ると
何を言っているのだろう。聞き取ろうと耳を澄ませて身を乗り出すと、男性の首が突如としてあり得ない角度に折れ曲がり、ギョロリとした
霊が見えるからと言って、それに慣れるなどということはない。どうしたところで、怖いものは怖いのだ。今は昼間で周囲に大勢の人もいるからどうにか我慢できているが、一人きりの時に遭遇していたのならば、織家は今頃悲鳴を上げて逃げ出しているだろう。
大講義室を出ようか。その選択肢は、浮かんだ直後に切り捨てる。冗談ではない。今日を逃したら、大学卒業まで天木に出会えない可能性も十分あるのだ。霊なんて、いつも通り無視すればいい。気にしたら負けだと、織家は自分に言い聞かせて深呼吸する。
僅かばかり取り戻した平常心を胸に留め、静かに講義の開始を待った。
◆
「ホント、最っ悪」
大講義室を出て
織家の目に映っていたのは、終始天木と重なるように立っている邪魔な白髪の男性。さらには天木の声と、天木が襟元につけているピンマイクが拾った霊のボソボソとした呟き声とが重なり、一体何を話しているのか全く聞き取ることができなかったのである。講義を受けた皆の反応を見るに、この声が聞こえていたのも霊感持ちの織家だけだったようだ。
四年ぶりに会えた天木の顔は霊と重なりまともに見えず、一時間半の講義内容は織家の耳には解読不能な
「……落ち込んでも仕方ない」
自分で呟いておきながら、その『仕方ない』という言葉を今朝も発していることを思い出し、気持ちが沈んでしまう。
霊が見えることは、仕方のないこと。頭では理解していても、納得しているわけではない。霊感なんてものがなければ、これまで積み重ねてきた数々の『仕方ない』は、なかったはずなのだから。
「この後、何の授業取ってたっけ?」
考えても答えが出ない問題を投げ出して、織家はトートバッグに手を入れてスマホを探す。授業のスケジュールもキャンパスマップも、全てスマホに入っている。今の時代、スマホがなければ右も左もわからない。
「……ない」
そんな大事なものを、どこかで落としてしまったようだった。織家の顔は、見る見る青ざめていく。
スマホに表示したキャンパスマップを頼りに大講義室まで行ったので、落としたとすれば自分の利用した座席の辺りのはず。織家は学生の波に逆らう形で大講義室に戻ると、先ほどまで座っていた座席の下を
「よかったー!」
天木は、まだ壇上に残っている。女子大生数人と一緒に、笑顔で写真撮影に応じていた。その姿は、ファンサービスを行う男性アイドルを
ああいうのがOKなら、ぜひ自分も一緒に写真を撮りたい。しまったばかりのスマホを取り出した織家だったが、その欲望を抑え込むかのように白髪の高齢男性の霊が再び壇上に姿を現した。途端に足が
写真を撮っていた女子大生たちは、天木に礼を述べると
「……あ、あのっ!」
織家は、勇気を振り絞り声を上げた。霊が怖くて近づくことはできないが、遠くから思いを伝えることくらいはできる。織家の声に、天木はにこやかな顔を向けた。現在天木の姿は霊と重なってはおらず、整った顔立ちがよく見える。
「あの、えっと……私、天木さんのファンなんです!」
「それはありがとう。嬉しいよ」
「覚えてますか? 四年くらい前に、港の見える丘公園の近くであなたが開催していた住宅完成見学会に、中学生を一人招き入れてくれたことを。あの家を見たおかげで、私は建築を志してこの大学に──」
夢中で語る織家の声を遮って、天木が驚きの声を上げた。
「君は、あの時の女の子か!」
天木は壇上から降りると、階段状に並ぶ座席の中ほどにいる織家の前まであっという間に距離を詰めてくる。
「いやぁ、大きくなったね! 見違えたよ!」
「あ、ありがとうございます」
覚えてくれていただけでも嬉しいのに、天木は再会をこんなにも喜んでくれている。父の反対を振り切ってまでこの大学へ進学して、本当によかったと思えた。
「君、名前は?」
「あ、織家です。織家紗奈。春に入学したばかりの一年生です」
思い返せば、中学生の時の織家は天木に名乗りもしていなかった。今にして思えば、失礼な話である。
「では、織家くん」
天木は壇上で片付けを行っている大学の事務員たちに聞かれないよう、小声で尋ねてくる。「君、見える人だろう?」と。
不意の質問に、織家の心臓がドクンと跳ねる。これまでひた隠しにしてきた自身の秘密を見抜かれたことに、動揺を隠しきれず視線が泳いでしまう。
「……どうしてそう思うんですか?」
「講義の途中からおかしいとは思っていたんだ。壇上からは、学生が思っているよりも一人一人の顔がよく見える。僕の講義が退屈でスマホを
天木の推測は的を射ている。しかし、普通そんな考えに行き着くものだろうか。
「……もしかして、天木さんも見える人なんですか?」
この質問で、織家は自身の霊感持ちを白状したも同然となってしまった。問われた天木は、頭を横に振る。
「残念ながら、僕に霊感の
周囲をキョロキョロ見渡し、人が近くにいないことを改めて確認してから、天木は口を開いた。
「ここだけの話、僕はオカルトにとても興味があるんだ。このことは、くれぐれも内緒で頼むよ」
ヒソヒソ話のような状況になっている結果、天木との距離も必然的にぐっと近くなる。織家は火照る顔を覚ますように、何度も大きく
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