第一話 階段の怪談①
「短い間でしたが、お世話になりました」
大学入学に合わせてショートボブに整えた頭を深々と下げる織家を前に、
愛想は人並みにあり、接客も
「まあ、仕方ないか。だけど……困ったなぁ」
スマホに入っている家計簿のアプリを
受験勉強の甲斐あって、織家が晴れて横浜市のY大学の建築学科に入学したのはつい二週間ほど前のこと。華々しいキャンパスライフが幕を開けたわけだが、喜んでばかりもいられない。
織家は、幼い頃に母を失っている。父は再婚することもなく、男手一つで織家をここまで育て上げた。そんな父は娘を心配してか、はたまた単に子離れができないのか、織家が横浜の大学に進学することに猛反対した。福島の実家から通える距離の大学にも建築系の学科はあるからそこにしろという意見を、断固として曲げなかった。
それに反発する形で、織家は横浜の大学受験を強行する。自身の学力では厳しいと言われていたが、奇跡的にも現役合格することができた。結果とは、即ち努力の
ここまで来てしまえば、もう互いに引き下がることはできない。絶縁も覚悟のうえで横浜に出てきた織家の肩には、現在学費と生活費の全てが乗っているわけである。
父の協力は得られなかったが、機関保証制度を利用することでどうにか奨学金を受けることはできた。高校時代にバイトで貯めた貯金も多少はあるが、気を抜けばあっという間に使い果たしてしまうだろう。喫茶店のバイトは店もお
慣れない土地での大学生活は、まだ始まったばかり。他にも心配事を数えれば、両手の指を使っても足りそうにない。先のことを考え始めると、どうにも頭の中がむず
「あー、もうっ!」
両の頰をパチンと
「やっば! 急がないと!」
お気に入りのオレンジのトートバッグを抱え込むと、織家は駅へ向かって走り出した。
◆
Y大学のキャンパスまでは、横浜駅から二駅ほど進んだ後に二十分は歩かなければならない。アクセスのしやすい立地とは言えないが、代わりに広大な敷地と豊かな自然に囲まれている。キャンパスマップを見るとちょっとしたテーマパークのようであり、移動するうえでとにかく足が疲れた。入学して日も浅いので、道に迷うこともしばしばである。
南門から入ってすぐのところには図書館があり、出入口の前は円形の広場となっている。学生たちにとっての憩いの場であるそこでは所々でグループができており、皆楽しそうに談笑している。
まだ友達と呼べる間柄の関係を学内で築けていない織家は、足早にそこを突っ切ると、図書館の外にあるガラスパネルの掲示板の前に立った。目を向けたのは、いくつもある掲示物のうちの一枚である。
建築学科特別講義『住宅デザインにおける窓の可能性』。講師 天木建築設計代表・
ガラスに反射する織家の顔は、にまにまと緩んでいた。このポスターはこれまでに何度も見ており、何なら自宅であるアパートの壁にも貼ってある。
ポスターのおおよそ半分を占めているのは、スーツを着込んだ塩顔のイケメンだ。
中学校の修学旅行で横浜を訪れて以来、天木が造ったあの家は織家にとって憧れであり、目標であり、自分の進むべき道を示してくれた指標となった。
そしてもちろん、そんな建物を設計した天木に対しても深い尊敬の念を抱いている。おまけにイケメンともなれば、推さない理由を探す方が難しいだろう。
「入学早々に天木さんの講義を受けられるなんて……本っ当についてる!」
父親の反対を押し切りY大学に進学したのは、座学のみでなく五感を通して建築を学べる授業を多く取り入れている部分に
そんな憧れの相手の特別講義が入学してすぐに受けられるというのは、織家にとって
「天木さん、私のことを覚えていたりしないかな」
などと一人
だが、もしも話をする機会を得られたなら、あの時のことを思い出してもらえるかもしれない。
だからこそ、いい席を取らなければと織家は早めに大学へやって来たのである。キャンパス内の移動はまだまだ不慣れなので、しっかりとスマホでキャンパスマップを確認してから大講義室を目指した。
◆
大講義室は、どの席からも講師が見えるように座席が階段状に配置されている。入室した時、織家は野球のスタジアムを連想した。
収容人数は、約二百名。初めて入ったが、波打つようなデザインの白い天井が特徴的で面白い。などというお気楽な感想は、すぐに隅へ追いやられる。
「……やばい」
織家が到着したのは、講義開始の約三十分前だった。余裕を持って訪れたつもりだったのだが、席はもう前でも後ろでもない中途半端な場所が
とにもかくにも、まずは座席を確保する。広い講義室内は、まるでアーティストのライブ前のようにざわめいていた。自然と、前の席の女子グループの会話が耳に入ってくる。
「天木さんって、親が有名人なんだっけ?」
「確か父親が芸能人で、母親はモデルか何かだったかなー」
正確には、父親が舞台俳優で母親が元アイドルである。身を乗り出して教えてあげたい衝動に駆られる織家だったが、厄介なオタクと思われるのも嫌なのでやめておいた。
「でも、それだけ恵まれてると設計の評価も親の七光りっぽく感じるよね」
聞き捨てならない言葉に、織家はその発言をした女子の後頭部を睨みつけた。
天木には学生時代からコンペを総なめにしていたという実績もあり、親の職業が発覚したのも、設計した家が注目を集めて雑誌のインタビューを受けた時のことである。断じて、親の七光りなどではない。
文句を言ってやりたい気持ちを何とか
そこには現在、
「……あっ」
そう呟くと同時に、織家は目を伏せる。その男性が顔を合わせたくない知人というわけでもなければ、急に体調が悪くなったわけでもない。しかしながら、織家にとっては困ったことになっていた。
あんなところで何をしているのだろうとその男性を観察していたところ、音響機器を運んでいた女性が──男性の体を、何事もなく通り抜けていったのだ。
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