自動販売機

藍田レプン

自動販売機

 60代のGさんから伺った話である。

 もう30年以上前のこと、当時Gさんは疲れ果てていた。仕事は業績が振るわず、上司からは叱責され、部下からは馬鹿にされ、家に帰ったら妻からもっと家庭を大切にしろと非難される。極度の疲労、睡眠不足、希死念慮。

 すべてが厭になったGさんは、ある日妻にも会社にも告げず、車で家を飛び出した。

 目的もなく高速道路に乗り、ひたすらスピードを出して走り続けた。周囲の景色からビル群が消え、家屋が消え、山の緑だけになったころ、ようやく高速道路を降り、来たことも無い土地の下道をのろのろと走る。

 私はいったい何をしているのだろう。何が楽しくて今まで生きてきたのだろう。

 気がつくと涙を流していた。視界がぼやけ、車を路肩に停めてスーツの袖口で涙を拭く。

 まだ携帯電話が普及し始めたばかりの時代で、Gさんは携帯電話を持っていなかった。

 今なら会社から鬼のように電話がかかって来ていたでしょうね、と気真面目そうな顔をふにゃり、と緩めて笑う。

 さあ、これからどうしようか。勢いに任せて家を出てきてしまったから、自殺をしようにも何も持っていない。縄も、睡眠薬も、農薬も無い。山に来てしまったのでビルからの投身自殺も難しい。本当にこういうところが自分は駄目なのだ、と落胆したGさんの目に、薄汚れた看板が少し先の十字路に立っているのが見えた。

 『温泉 素泊まり歓迎』

 と書かれている。

 温泉か。

 最後に温泉に入るのもいいかもしれない。それから明日準備を整えて死ぬのも悪くない。そう思えたGさんは、看板の示す細い山道へと入っていった。

 車が一台ぎりぎり通れるほどの緩やかな山道を登っていくと、その先には小さな和風建築が見えた。陰気ではないが、何とも枯れた雰囲気の宿だったという。

 宿の前に車を停め、玄関を開けて泊まれますか、と声をかけると、老爺が一人、玄関から入ってすぐの襖を開けて顔を出し、おひとり様ですか、と尋ねた。

 はい、とGさんが答えると、今日は素泊まりしかできませんがそれでよければ、と老爺が言う。構いませんと答えると、1500円ですと言われ、金を払って奥の客間に通された。

 客間も綺麗に掃除はされていたが、山奥らしい寂れた雰囲気の部屋だった。テレビも無く、卓袱台と薄い座布団が二枚置いてあるだけの、四畳半ほどの部屋。

 布団は押入れに入っているから、好きに使ってくれと言って老爺は出ていった。

 昔ながらの旅館らしく鍵も無い。なんとなく勢いで来てしまったが、この何も無さが自分の最後には合っている気がして、Gさんは少しほっとしたという。

 押し入れの下段に入っていた浴衣を着て、端のほつれたバスタオルを手に、Gさんは部屋を出て温泉へと向かった。廊下に書かれた『温泉→』という文字を辿りながら着いたそこは、小ぢんまりとした露天風呂だった。

 乳白色の湯が張られた石造りの浴槽は5、6人入れば満員になるだろうか。

 湯にはたくさん木の葉が浮いていたが、Gさんは気にせずにその風呂に入った。

 見てくれはいいとは言えないが、体の芯まで温まるいい湯だったという。

 森に囲まれた温泉の中で、彼は日々の疲れを忘れていった。

 緑の木々がざわざわと揺れる音、野鳥の鳴き声、湯気を立てる温泉に浮かぶ木の葉が作る小さな波紋。今まで自分が毎日見てきたものとは、どうしてこんなにも違うのだろう。

 Gさんはそこで、また少し泣いた。

 結局、Gさん以外に客はいないのか途中で誰も温泉には入って来ず、彼は温泉を出ると体をタオルで拭き、少し丈の短い浴衣を着て脱衣所を出た。

 途中、自販機が並んでいる一角があったのを思い出し、ビールでもあれば買おうかと袖の小銭入れに手を伸ばす。

 3台ほど並んでいる自販機のひとつに、奇妙なものがあった。

 白い自販機で、メーカー名も何も書かれていない。子供が描いたようなシンプルな直方体に、とても既製品とは思えないものが並んでいた。

 薄汚れたカップ酒の瓶に入った、泥を薄めたような液体。野兎の死体。野ネズミの死体。鹿の角の一部。キノコが生えた木の枝。どんぐり。

 なんだこれは。

 この宿の主の趣味なのかわからないが、どうしてこんなものを自販機に入れて売っているのだろう。まるで意味がわからない。まるで意味がわからないのだが、その時は好奇心が勝った。

 Gさんは小銭を入れると、どんぐりが置かれている下のボタンを押した。

 すると自販機の中から「わぁい」と子供が喜ぶような声がして、すっと棚からどんぐりが消えた。それからかさかさという音がして、自販機の受け取り口に何かが置かれた。

 受け取り口から取り出してみると、それはフキの葉で包まれた数個のどんぐりだったという。

 「ありがとうございました」という可愛らしい子供の声の後に、「チッ」と大人が舌打ちをする声が聞こえた。


「それで、なんだか急に死ぬ気が失せてしまいまして」

 きっとあの自販機は、親子のキツネが化けていたものなのではないか、とGさんは付け加えた。

「キツネに化かされるのも、いいものですよ」

 そのどんぐりは30年経った今も、Gさんの部屋の机の引き出しに、大切にしまってあるという。 

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