こぼれた鋒(きっさき)、その先へ

卯崎瑛珠@初書籍発売中

前編


「しゅー、はー」


 面金の間の、鋭い眼光と目が合った。


 試合場のコートは、床材に白いテープが貼られている。

 

 対面に立つ相手は、身体を温めるため何度もとん、とん、とテープの上でリズミカルに飛び跳ねている。

 ぱたり、ぱたりとそれに合わせて跳ねる面布団めんぶとんの裾は、まるで鳥の翼のようだ――大空へ悠々と羽ばたいていくための準備運動みたいだな、とどこか冷えた頭でそれを見ている。

 

 私より二回り大きい彼女の巨体から立ちのぼるのは、闘気だ。周囲の空気が歪んでいるようにさえ見える。

 


 ――ふー。

 


 お互いの呼吸音、それから、周囲の観客が固唾を呑む音がする。


 私は、ぎりり、と左小手こての中で竹刀を握り直した。




 いつ、仕掛けようか。


 いつ、誘おうか。

 

 


 相手と竹刀の中結なかゆいを合わせるようにして中段に構え、蹲踞そんきょする。

 

 

「はじめ!」



 審判の声が、鼓膜を打った。

 



 ◇

 

 


 家に帰りたくない――私が剣道を始めた動機は、ただそれだけだった。


 酒に酔って、家族を殴る父親がいる家というのは本当に厄介だ。

 十三歳という思春期ど真ん中の女子中学生がいるなら、なおさら。


 二リットルのペットボトルの三倍はありそうな、焼酎のペットボトルがあるなんて知らなくてもいい。

 ドメスティックバイオレンスには、波があるってことも知らなくていい(ニコニコハッピーな時と暴れる時が交互にやってくる)。

 両親が共依存だと、子供は本当に孤独だということも。



 ――知らなくていい。知ってしまった。なら、忘れるしかない。




 ◇



 

 中学に入学したとき、部活動入部が必須、という謎の校則があって驚いた。

 生徒手帳をパラパラとめくって中身を見てみるが、どこにもそんなことは書いていない(髪の毛はどうだとか靴下は白だとか)。


 同級生は小学校からの持ち上がりなので、右も左も知った顔。制服を着ているか着てないかの違いぐらいしかない。だから「どの部活が一番楽か?」が入学式後の最もホットな話題だった。


「なんでバスケ部がないんだよ~」

「バレー部が強いからだろ」

「今時、丸坊主嫌だな。でも野球か」

「バドミントンないからソフトテニスにする~」


 そんな目的があるならまだいい。

 私にやりたいことは、一つもなかった。


「イオリは、何部入る?」

「……決めてない」


 教室でもたまたま隣の席になった、近所に住んでいるユイが唐突に聞いてきた。登下校を一緒にしているので、気になるのだろう、と私は予想する。


「なー。剣道部にしよーぜ」


 ユイの背後から、ナナが身を乗り出して言う。母親がスナック経営しているため、十三歳にして既に夜遊び常連の彼女は、ゲスい顔をして笑う。


「いっちばん暇で、いっちばんサボって良い部活ってパイセンが言ってたぜえ~~~」


 そのセリフに目を輝かせたのは、ユイだ。

 

「まじ?」

「まじまじ。しかもほら、うちの学校なぜか道場あるじゃん? そこの部室使い放題! 漫画とかお菓子とかあるらしい」


 グラウンドの端に、独立した建物があった。何かと思ったら、半分が柔道用の畳と、半分が床材の敷かれた剣道場なのである。

 

「部室……」


 それこそ、私にとって、最も魅力的なワードだった。

 そこにいられたら、早く帰らなくても良いのではないか。放課後の居場所になるかもしれない。


 楽とかサボるとかよりも、それが最重要だった。


「いいねえ」

「だろー」


 すぐに三人で、入部届にクラスとフルネームを書いて、担任に出した。

 気の強い国語の女性教師は、眼鏡の向こうからギロリと睨んできながら「見学しなくていいの? あとから簡単には変えられないよ」と言ってきたが、ナナが胸を張って元気よく

「いっす!」

 と返事をしたので、無事受理された。


 

 

 ◇



 

 そんな非常に不純な動機で入部したくせに、二年の先輩たちが想像以上にヤンキーで内心閉口した。

 近づくと、タバコくさい。めっちゃメイクしてる。常に睨まれる。口調が「うっざ」「生意気」などパワーワードだらけ。


 それでもナナのおかげで、ユイと私の三人は、部室に入ることを許された。

(他の部員は追い返された。部員なのに)


 はじめのうちはどうなることかと思ったが、やる気に満ち溢れた男性教師(剣道未経験)が顧問を買って出て、空気が変わってきた。

 男子がまじめに稽古をし始め、女子も無理やり引っ張りだされるようになったのだ。

 

「あーだるー」

「つか、くっせー」


 男子の防具の匂いはシャレにならないせいか、いつの間にかヤンキーたちの姿は消え(ナナも含む)、私を含む一年生たちは「袴が着たい」という単純かつ不純な動機のもと、真面目に基礎練習するようになっていった。

 

 ジャージ姿で竹刀を振るのは、恥ずかしかったが。

 やがて道着と袴を身に着けるようになったら、自然と背筋が伸びて、うまくなった気がした。


 そうして臨んだ、秋の新人戦は――団体一回戦負け。

 しかも、先鋒から大将まで、全員綺麗な二本負けストレートの五―ゼロ。まさに弱小チームである。不良の二年は不在で、一年しかいない。初心者丸出しで所作すら覚束おぼつかない。当然である。


「ねーイオリ……あたしさ~なんか、悔しい。てか、何あのユニフォーム! めっちゃかっこいいんだけど!」


 ギラギラなユイの目線の先には、地区ナンバーワンの全国大会常連校チームがいた。

 会場の空気に飲まれっぱなしの私たちとは違って、威風堂々というのはああいうことだろう、と思えた。

 白い剣道着に白い袴は凛として綺麗に見えたし、胴の色も単色ではなくきらびやかな染め細工だ。


 一方の私たちは、白い剣道着に紺の袴。防具は剣道場に置いてあった年季の入った借りもので、ところどころボロボロである。


「ぐぬぬぬ」

「はは。ユイはカッコから入るタイプだもんな」

「いーじゃん別に! 買おうよ!」


 ユイのすごいところは、すぐに親を巻き込んだところだ。


「先生! 部費集める! ユニフォーム、買う!!」

「おお! やる気あるのはいいことだな!」


 熱血教師、なにをどうやったのか、学校に部費を申請しつつ親へも募り、防具一式を一新した。


 真新しい面金がギラギラ、金箔が散っている紅の胴、上質な小手。


 馴染むまで固い。動き辛い。それでも、心は軽やかだ。

 

 

 私はというと、貧乏でアル中なオヤジが金を出す訳がない――仕方がないので、祖母にねだった。いつものことだが、胸がキリキリ痛む。

 それでも笑顔で言ってくれるのだ。


「ばあちゃんのへそくり、やる」

 

 こうして私は無事、本命である『マイ竹刀』を手に入れたのである(剣道着と袴は、ぶっちゃけおまけの感覚だ)。


 それからは、竹刀袋に竹刀を入れて、常に持ち歩いた。

 

「部室に置いとけばいいじゃん?」

「あ~……素振り。するから」

「うっそめっちゃマジメ!!」

「まーねー」


 はい。嘘である。

 

 オヤジの前で、何度かこれみよがしに素振りを披露した。多少大人しくなったが、どうせすぐ辞めるだろ、と鼻で笑われて悔しかったので、近所の公共施設で、段持ちのおじさんたちがボランティアでやっている道場に通った(月五百円の会費は、昼食代から払った)。竹刀はいつの間にか木刀に変わった。

 

 

 ――オヤジが私に殴りかかることは、格段に減った。



「なんかイオリ、めっちゃ強くなった?」


 二年になり、新入生も何人か入り、中総体に向けてレギュラー五人を選出するという日。ユイに唐突に言われた。


「そうかな?」


 とはいえ本人には、まったく自覚がない。

 

 部内の試合稽古は、相手の癖を知り尽くしているから、勝ってしまう。道場で同い年の人と打ち合うことはほぼないし(大人か小学生)、中学校同士の練習試合は、あまりに弱小すぎてどこも受けてくれなかったから。指標も基準もない。

 

 結局、二年の中総体も団体戦一回戦負け。ただし、スコアは四―一になった。その一勝は――私の勝ち星だ。


 個人戦にも挑戦したが、早々に強豪校の三年と当たり、敗退。


「弱えくせに金使うな」


 家で酔っ払いに絡まれたので、道場に行く日を増やすことにした。


 ボランティアのおじさんが「もっと良い道場あるぞ。お金はいらない」と誘ってくれたのもある。


 週に三回。部活の終わる夕方六時の後、防具袋を竹刀に引っ掛けて肩に担ぎ、三十分の道のりを歩いて通った。バスに乗るお金はない。でも、夜道を歩くのは楽しかった。途中から「あたしも強くなりたい!」と次鋒のアコも通い始めたから。ちなみにナナは夜遊び三昧で部活にすら来ないし、ユイは家でゴロゴロしたいもん、と断られた。


 六時半から、七時半まで。

 家に帰るのは、八時。


 お腹は減る。汗をたくさんかく。

 家に帰って、冷たいご飯にお味噌汁の残りをかけて食べ、風呂に入って寝る。


 きっと私は。私の家は。普通じゃない。


 小学生までは、知らなかった。

 習い事なんかしてないし、近所の公園で友達と遊ぶだけの毎日だったし、何よりも、深く考えないようにしていた。


 外に出て、道場で『まともな大人の男の人たち』を知って。

 他の道場生をお迎えに来る親たちを見て。

 


 体の奥底から、とめどもなく嫌悪が湧き出す感覚に、溺れそうになった。

 

 

 嗚呼、私は、普通じゃないんだな……不幸だ。あんな親、いらない。こんななら、生まれたくなかった。




 ますます、竹刀を振るった。

 

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