恋慕と義憤

@koyuki-taira

恋慕と義憤

 少年は激昂した。この世の不条理を、彼の瞋恚の火炎で焼き尽くそうと決意した。

 今朝のホームルームでのことである。担任の山岸が、まあ、うちのクラスの生徒ではないと思うんだけど、と前置きした上で――これは枕詞のようなもので、彼が本気でそう思って言っているわけではないということは、生徒の誰もが知っていた――、おおよそ次のように言った。

「昨日、近隣の方から苦情のお電話がありました。どうやら、うちの生徒が自転車の通行の邪魔になっていて、ベルを鳴らされても道を空けなかったとのことです。どういう教育をしてんだ、とのお叱りを受けてしまいました。まあ、みなさんのことではないと思うのですが、登下校の際には、地域の方の通行の邪魔にならないように気をつけてください」

 教師自身を含め、この教室で、これを形式的な連絡以上のものとして受け止めた者はいなかった――ただひとりを除いて。

 ひとり秘かに歯が根を鳴らしていたのは、かの少年、三浦である。彼は山岸の連絡を聞きながら、昨日の下校時の恥辱を思い出していた。

 ――三浦はいつものごとく、ひとりで下校していた。部活には入っておらず、また、友達もいない彼は、いつも学校が終わり次第すぐ、寄り道もせずに下校しているのである。薄墨色の不吉な空からは雨が降っていたが、彼は傘を持っていなかったので、そのまま暮雨の中を濡れて帰ることにした。校門を出て、すぐ近くにある工業高校の脇を通り(彼はここを通るとき、高校生と偶然目を合わせてしまうことのないように、いつも下を向いて歩いている)、大通りに出たところであった。彼は、後ろから、チリンチリンという自転車のベルの音を聞いた。振り返ると、老人である。雨に濡れながら、急いで家に帰っているのだろう。禿頭にわずかに残った髪が濡れ、額に張り付いている。そのとき、三浦の鬱勃とした精神は、須臾にして彼の身体を乗っ取り、己のルサンチマンを発散させるための獲物として、この老人に照準を定めた。三浦は前を向き、あえてゆっくりと歩き始めた。ベルは何度も、何度も、何度も、囂しく鳴っている。彼はその音に、自分に対する軽視と憎悪とを聞き取り、半ば慄然としつつも、同時に、ある種の背徳的な恍惚に浸っていた。

 自転車はいつまでも減速することができない。ベルの加速と反比例するかのように減速しつづけた自転車は、やがて三浦の後ろで停止し、老人は地面に足を付けることになった。

「お前はこの音が聞こえないのか」

 老人は思いの外野太い声で、半ば叫ぶようにして言った。老いて益々盛んである。

 三浦の顔からは血の気が引き、彼は口がきけなかった。一瞬前までの優越感は雲散霧消し、今では恐懼と後悔とが彼の全身を支配していた。老人は、悄然と立ち尽くす彼の脇を自転車を押して通りながら、

「お前、あそこの中学生の生徒だろう」

 と、一層低い声で言い放った。老人の生暖かい息が三浦の顔を撫で、その臭穢に彼は思わず顔を顰めそうになった。

 老人はそのまま自転車に乗って走り去って行った。三浦はすっかり打ちひしがれ、跼天蹐地して帰路を辿った。

 玄関の鍵を開け、自室に帰ってきた三浦は、濡羽色の学ランを脱ぎ、幽暗の中、タオルで全身を拭きながら、つい先ほど自分の身に降りかかった災厄を、最初から最後まで、何度も反芻した。というよりもむしろ、彼の詬辱の記憶が自らを頑然と主張し、意識の前面に躍出しては、彼の意志に反して、かの老人の陋醜な姿を映し出した。彼はその度に、その像を頭蓋の外側に抛擲するかのごとく、蓬髪をかきむしり、そして何度も頭を左右に振った。

 はじめは恥の感情に支配されていた彼の精神は、何度も繰り返される黒歴史の上演によって徐々に免疫を獲得し、次第に冷静さを取り戻してきた。そして、彼の脳裏には、ひとつの問いが浮かんだ。果たして、老人の怒りは正当なものだったのだろうか? 三浦はたしかに、歩道を歩いていただけである。歩行者が歩道を歩いていて、果たして怒鳴られる義理があるのだろうか?

 三浦はインターネットで調べてみることにした。その結果、次のようなことが判明した。自転車は原則として車道を通行しなければならないこと、鳴らさざるを得ない場合を除いて、自転車のベルは鳴らしてはならないこと、要するに、間違っていたのは彼ではなく、あの老人の方だったということが判明したのである。少年はいま、正義を手にした。

 少年の精神は都合が良すぎるほどに柔軟である。それゆえの脆弱性でもあるわけだが、彼の手にした正義は、彼の錯謬を直ちに糊塗し、彼をずっと正しかったのだという錯覚に酔わせた。手にした力は使わなければ気が済まない。因果は廻る車輪であり、老人は自らの罪を償わなければならない。少年には、老人が自転車に乗っていることが、象徴的な意味を持っているように思われた。

 碧落一洗の明くる朝、登校中の少年の両眼は、かの鴟梟を探していた。老人を見つけたら、昨日の出来事をできるだけ再現し、そして老人が一喝してきたところで、天誅を加えてやろうと思っていたのである。それだけ年齢を重ねておきながら、ルールさえ守れないとは、なんともみっともない。きっとそう言ってやろう、と少年は考えていた。眉間に皺を寄せ、目を皿のようにして宿敵を探していた少年だったが、懐に忍ばせた秘密の作戦を思うと少年は欣快に堪えず、顔も思わず綻んだ。

「なんだか楽しそうだね」

 ちょうどそのとき、同じクラスの佐野が声をかけてきた。朝陽が染み込んだ長い髪は、タンポポのような色を呈している。

「別に楽しくなんかない」

 三浦の頬に薄紅が散る。これもあるいは朝陽のせいかもしれない。

「ひとりでニヤニヤしてたけどねえ」

 佐野の声は迦陵頻伽のように美しかった。一重まぶたで目は小さく、男子たちからの人気はなかったが、彼女もそんなことは歯牙にもかけなかった。たいていの女子は、校則を無視して髪を染めたり、制服を着崩したりしている男子を好きになったものだが、佐野はそうした男子を哀れがっていた。大人たちは口を揃えて「ちゃんとしている方が格好良い」と言うが、そういう意味では、佐野は老成していたのかもしれない。

 二人は並んで歩いた。風に靡いた佐野の髪が少年の肩を撫で、彼の心臓は早鐘を撞くように騒いだ。少年は口がきけなくなった。けれど、彼女の声が聞きたいと思った。

「三浦、怒ってる?」

 少年の沈黙は誤解されたようだった。

「怒ってない」

「じゃあなんで黙ってるの?」

「眠いから」

「そうなんだ」

 二人はまた、黙って歩いた。やがて、学校の近くの大通りへと辿り着いた。車通りは多く、横断歩道の信号はなかなか変わらない。少年はバッグから水筒を取り出し、喉を潤してから言った。

「いつもこの時間に学校行ってるの?」

「いつもはもうちょっと遅い時間に行くんだけど、昨日、帰るとき雨降ってたから自転車を学校に置いてきたんだよね。だから今日はいつもより早めに家をでたの。そしたら、三浦がいた」

 そしたら、三浦がいた。少年は、彼女の言葉の裏をなんとか読み取ろうとした。三浦がいた。彼女は嬉しかったのだろうか。それとも、鳩がいた、くらいの気持ちでそう言ったに過ぎないのだろうか。今日も雨が降ってくれたらいいのに、と少年は思った。

 信号は青になり、二人は歩き出した。学校まではあと少しである。そして今日は、雨は降りそうにない。300メートルが250メートルになり、やがて200メートルになることに耐えられず、少年は一気に駆けだした。早く行って宿題やらないといけないから、と言い残して。彼にとっての安楽死である。

 席についてからも、少年はしばらく佐野との時間を思い出しては望外の幸せを玩味していた。彼女の声を、髪を、朝陽を、水たまりを。

 しかし、そんな愉悦も、担任の山岸の連絡によって、木っ端みじんに打ち砕かれた。

 少年は激昂した。この世の不条理を、彼の瞋恚の火炎で焼き尽くそうと決意した。

 少年の精神構造は単純で、同時にふたつの異なるものを容れることはできない。恋慕と義憤、佐野と老人は、少年の精神に同時に存在することができないのである。彼はその日一日、あの憎き老人、悪辣な無法者を成敗することだけを考えて過ごした。自分には使命があることを思いだしたのである。

 そして放課後がやってきた。

 少年は、今日見つからなければ明日、明日見つからなければ明後日、というように、どれだけ時間がかかろうとも、老人に一泡吹かせてやるという覚悟で、校門を出てあの大通りへ向かった。朝陽を反射して少年を眩惑した今朝の水たまりは、すでに蒸発していた。夕影が少年を照らし、足下には長い影が延びている。車通りは朝ほどには多くないが、これから日没にかけて、道路は愈々忙しくなるだろう。

 はじめこそ意気軒昂として老人を探していた少年であったが、20分が経過するころには、彼はすでにやめる理由を探していた。そもそも、老人がここを毎日通るという保証はないのだし、そうなのだとすれば、老人を見つけるのは、盲亀の浮木に会うようなものではないだろうか。いやしかし、老人は少年の通う中学のことを知っていたのであるから、この辺りに住んでいるに違いない。少年はこのようにして、自ら拵えた言い訳を自ら潰しては、刻々と冷えゆく晩景のなかを右往左往していた。

 かの老人に出くわした辺りを何度も往復しているうちに、少年には自分の企みがなにやら稚拙なものに思われてきた。果たして自分は、ここまでして老人に誤りを認めさせたいのだろうか? いや、そもそも自分は誤りを認めさせたいのか? ただ言いたいことを言って溜飲を下げたいだけなのではないだろうか? だとしたら自分は、「お前はこの音が聞こえないのか」と言った老人と相違ないのではないか?

 太陽は徐々に傾き、帰宅する車はその数を増しつつある。そのさまはまるで、落照から車が吐き出されているかのようであった。少年は、もう帰ろうと思った。次第に大きくなる車の騒音に押し潰されるように背を丸め、自宅に向かって悄然と歩いていたそのとき、彼の後ろから、チリンチリンという自転車のベルの音が聞こえた。頭を上げ、急いで振り返った少年が見たのは、自転車に跨がり、嫣然と微笑む佐野であった。

 三浦は、怒りを忘れた。


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