第12話 上司の来訪


「あ〜っ、今日は疲れたぁ……」


 どさり、とイサは寮にある自室のベッドに倒れ込んだ。

 室内に一つだけある腰高の窓からは茜色の夕日が見え始めている。


 ジャンに帰宅を許された彼女はあれから事後処理を済ませ案内人専用の寮へと戻っていた。


 オウガストが紹介してくれたこの案内所は住み込み制で、仕事場の西側に等間隔で四つの寮が並んでいる。そこがイサ達案内人の住居だ。

 反対である東側にも同じように四つの建物があるが、そちらは役職付きのジャンや出張案内専門の剣士エキディウスの他、ローベニクなど医務室に勤務している者達が使用している。東側の方が設備が豪華であるため、ユッタは早く出世してあちら側の住人になりたいと息巻いていた。


 イサも向こうにある大浴場やお酒を自由に持ち出せるバースペースに興味はあるが、今の部屋も十分元の世界のアパートよりはマシなので十分満足だった。何しろ一人部屋なうえトイレとお風呂が別なのだ。それに寮母さんがいるおかげで食事にも困ることはない。異世界万歳である。


「良かった……クビにならなくて」


 ベッドの上で、ようやく見慣れた天井を眺めながらひとりごちる。


 てっきり即日解雇だと思っていたのに、ジャンはイサの状況を慮ってくれた。

 女だと打ち明けずに来たことを責めることなく、望んでこの世界に来た訳では無いことも理解してくれたのだ。イサはそれが何より有り難く、嬉しいと感じた。


 あの時のジャンはあまり目を合わせてはくれなかったけれど、彼の口調は怒ってはいなかったし、明日も通常通り出勤するようにと言ってもらえた。正直、イサは今回のことでジャンを見る目ががらりと変わった気がする。


 厳しい仕事の鬼ではあるものの、仕事はきちんとしているし、出張案内により転送術でディスパニア地方へ行った時、イサの仕事振りを褒めてくれたりした。普段からちゃんと見てくれていたのだろう。


 その後ヴェロアマジェスに襲われた時だって、自らの身を盾にしてまで部下であるイサや客を守ろうとしてくれた。


 また勘違いとはいえ、イサが負傷したと思って賢明に治療してくれようともしたのだ。

 何だかんだ良い人……だと思う。というか、かなり、いやすごく、真摯で思いやりのある人、だと思った。


 イサは元の世界ではあまり良い上司に恵まれなかった。

 長く勤めているというそれだけで態度が横柄な人もいたし、話すたびにコロコロ言うことが変わるくせに失敗は下の社員に押し付けるような人間もいた。


 だから、イサはジャンがどれだけ良い上司なのかがよく分かる。だから思うのだ。ジャンが上司でいてくれるなら、彼が見ていてくれるなら、これからもイサは仕事を目一杯頑張りたいと。


 それがクビにならなかったせめてもの恩返しだ。


「ムール統括長……か」


 ごろりと寝返りとうちながらイサはジャンのことを考えた。流れる銀の髪に鋭い氷色の瞳。細身なのに体つきはしっかりしていて、手も……手もちゃんと、大きくて節ばった男の人の手だったな、と彼の姿が浮かんでくる。

 そうして、イサの視線は思い浮かべたジャンの手に吸い寄せられた。


 あの手が―――自分の胸に触れたのだ、という事実をいまさらだがはっきりと認識した。


「〜〜〜〜〜っ!!」


 イサは声にならない声を上げてベッドの上で足をじたばたさせた。


 いや何を一体自分は思い出しているんだ、と両手で顔を隠しながら悶絶する。誰も見ていないのに無性に羞恥心が込み上げてくる。


 『上司に胸を触られた』という文言にするとものすごいフレーズが頭に浮かび、ばふ、という音と一緒に顔面が一気に沸騰した。


 これが元の世界のセクハラ事件のごとく相手が気持ち悪いおっさんであれば殺意しかわかないのだろうが、相手はあのジャンである。超絶美形なうえ、良い上司かつ良い人間、つまり良い男なのである。


 これで恥ずかしがるなという方が無理な話だ。


「う〜〜〜〜っ! 明日どんな顔して会えばいいの……っ!?」


 ぼふぼふ、と枕を叩きながらイサは誰にでもなく悲鳴を上げた。


 もちろん声は小さくしているが、今はひたすら騒ぎ立てたいくらい恥ずかしくてしょうがなかった。元の世界なら枯れかけていたイサの女子的な何かが、今になってきゃーきゃー言っているのだ。


 ジャンといた時は仕事モードだったため存外平静でいられたが、部屋にいる今は完全にオフモードなのである。じっとなんてしていられるわけがない。


 イサは顔面に氷枕を当てたい気分だった。でないと顔が焼け焦げそうだ。


「もお恥ずかし過ぎる〜〜〜っ! あれ、でも……」


 しばらく恥ずかしがったところで、イサはふとある事に気がついた。それは上司の美形具合である。


 そうなのだ。ジャンはイサが見た中で、かつ案内所にいる誰よりも整った容姿を持った人なのである。


 つまり、そんな人ならば女の胸のひとつやふたつ、触ったところで何とも思っていないのでは……?

 という事実だ。


  何しろあの容貌だ。しかも統括長という役職上、高給取りでもある。であれば女など鬱陶しいほど寄ってくると予想できる。


 実際ユッタに聞いたところ、ジャン目当ての女性が女人禁制の案内所フロアに不法侵入しようとしたこともあったのだとか。検知の術はそのせいでかけられたのだと。

 度々かかっているイタ念も、実はジャンを目当てにかかっているのではないか、という噂もある。


 出張案内に行った先で女性の冒険者に見初められたのだろうと。真実は定かではないものの、あれほどの美しさなら納得もしようというものだ。まあ、本人はそんな風に言われても迷惑なだけかもしれないが。


 それはさておき、女性など選り取り見取りなジャンなら、イサの胸を触ったくらいそこら辺の小石に触ったのと大差ない感覚なのではないだろうか。実際、医務室ではその話を一切しなかったわけだし。


 と、そこまで考えたところで、イサの中でひとつの結論が導き出された。


「うん……あれは事故。ムール統括長は、むしろ被害者」


 つまり、触りたくて触ったわけでもないジャンは一方的に被害者で、ある意味加害者であるイサが恥ずかしがる資格など無いのである。


 きっとそうだ。なのであれは事故なのだ。

 事故とはいずれ風化するものである。たぶん。そうなって欲しいと思う。

 でなければ色々と死ぬ気がした。


「は〜〜〜っ、お風呂入って寝よ寝よ!」


 ふん、とイサは勢いよくベッドから起き上がった。


 医務室で借りた制服も洗濯して返さねばならないし、今日は精神的に疲れたので早めに寝て明日に備えるべきだろう。だからさっさと気持ちを切り替えねば、といそいそと着替えの準備を始める。


 元の世界ならアンティークショップにしか置いてなさそうな彫り装飾が施された木製箪笥を開けて、下着や寝間着を取り出す。


 イサの部屋はベッドに箪、簡易的な机と椅子のセットに本棚といったシンプルな内装だ。

 だが家具はしっかりした造りだし、寝具もふかふかで寝心地が良いものなのでかなり気に入っている。出入り口である茶色い扉の取っ手は流線的なデザインが上品でとても素敵だし、入ってすぐ横には上着を掛けるスタンドだってあるのだ。


 着替えを手にふとそのスタンドを見たイサはあることを思い出した。それは、ジャンが貸してくれた彼の上着だ。洗って返すと申し出たものの却下されてしまったのだ。しかも、ジャンは上着を置いたまま医務室を出てしまったので医務官であるローベニクに伝言するしかなかった。フロアに届けようかと一度覗いてみたものの、ジャンの姿はなかったので仕方なくそうしたのである。


「ちゃんと受け取ったかな。やっぱり洗ってから返せば良かったなー……」


 風呂でシャワーを浴びながらイサは少しの後悔を口にした。ジャンが上着を貸してくれたから彼女は胸を丸出しで帰還せずに済んだのだ。たとえ本人にいらないと言われたにしろ、ちゃんと礼儀は尽くすべきだったと今になって思う。


「うーん。何か代わりのお礼、しようかな……」


 シャワーを出て、薄手のシャツとズボンという寝巻きに着替えたイサはベッドの上で髪をタオルで拭きながら考えていた。一応魔法を使って身体を洗浄したり髪などを乾燥させたりもできるのだが、魔力の無駄遣いになるため大抵はみんなイサと同じように過ごしている。魔力というのは使いすぎると体調を崩してしまうそうだ。

 今のところイサは体験したことはないが。


 イサはジャンに何かできることはないかと思案した。といっても平の案内人である自分にできることなど限られているが……これがユッタなら食堂でご飯を奢ればいいので手軽なのだが、相手がジャンとなればそうもいかないだろう。イサは悩みに悩んだ。


「ん〜〜〜〜っ思いつかない!」


 ばさり、とタオルを放り投げつつベッドに後ろ向きに倒れる。やはり何も良いアイデアが浮かばない。そもそも彼のことをそんなに知らないのだ。上司と部下という間柄で日もさほど経っていないというのもある。まあ、ジャンはイサのことをちゃんと見てくれていたようだが、イサは仕事や生活に慣れるのに必死でそれどころではなかった。

 これは追々見つけていくしかないな、とイサがため息を虚空に吐き出した時だった。


 こんこん、と部屋の扉がノックされた音がした。


 ん? とイサは目を瞬かせた。窓を見ればそろそろ日が落ちようかという頃合いである。


 けれどまだ案内人達は勤務時間のため、寮には帰ってこないはずだ。

 なのに、一体誰だろうか? そう思いながらノックした相手に話しかける。


「はい、どなたですか?」


「……俺だ。ジャン・ムールだ」


「え?」


 返答を聞いたイサは一瞬意味が分からなかった。けれどすぐに名前の人物に思い至り、慌ててベッドから飛び起きて扉へと向かう。今、ジャン・ムールと聞こえたような。いや絶対に聞こえたような。


 そう考えながら取っ手を回し、扉を開けた。

 するとそこには、宣言通りの人物が立っていた。


「む、ムール統括長……?」


 長い銀色の髪は古い案内人寮ではどうにも不似合いに見える。


 特に純白の白衣は明らかに場違いで、まるでそこだけ別の場所になっているかに見えた。

 といっても、ここはイサの部屋の、扉の前なのだが。


 来訪者は、なぜか緊張した面持ちの上司、つまりジャンだった。



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