第11話 上司の懐


「―――というわけで、そのまま言い出せずに来てしまいました……本当に申し訳ありませんでした」


 二人きりの医務室で、イサはジャンに事の経緯をすべて、洗いざらい説明した。午後の光が白い壁に陰影を生み出し、タイル調の床には、頭を下げるイサの影が落ちている。


「謝罪は不要だ。頭を上げろ」


「は、はい……」


 言われて、イサは顔を元に戻した。説明の間中、ジャンはずっと無言だったが、今になってようやく口を開いてくれてほっとする。けれど、常と同じ無表情の彼が今何を考えているのかがわからない。


 イサはこれ以上ジャンに嘘をつきたくなくて、自分が異世界から来たことや、最初ジャンが女人禁制だと言っていたにも関わらず、すでにフロアに入っていたため女だと打ち明けられなかったことなどをすべて伝えた。


 また入り口にかかっている検知の魔法が反応しなかったこと、これまで一度たりとも反応していないことも含めてだ。


 イサがジャンの表情を窺うと、彼は何か考えるように顎下に指先を当て黙り込んでいる。

 イサの処遇について思案しているのだろうか。それとも、やはりビルニッツの姓まで名乗っていたイサが実は異世界から来た異物で、なおかつ女であったことを知り気分を害してしまったのかもしれない。


 このまますぐさまクビを言い渡されるのかも。

 そうイサが不安に思い始めていたところに、ふ、と僅かに息が溢れる音が聞こえた。


「事情は大体わかった。それで、君の本当の名前は何という」


「え?」


 予想していたのと違う言葉が投げられて、イサは一瞬呆けてしまった。けれど、じっと静かに返事を待っているジャンに気づいて慌てて言葉を返す。


「あ、はい。鏑木依紗かぶらぎいさと言います。こちら風に言えばイサ・カブラギ、ですね」


 先程の話の中では端折って説明していた本名を伝えると、ジャンはうむ、と神妙に頷きぶつぶつと独り言を零すようにイサが教えた名前を唱える。


「イサ・カブラギ。ふむ。イサ・カブラギか。よし、覚えた。名前のイサはそのままなんだな」


 自分の本名がジャンの口から出てくるのはなんだか少し気恥ずかしかった。


 この世界では、オウガスト以外に彼女の名前を知る者はいないし、会っていないので呼んでくれる人はいなかったからだ。だけど今、ジャンはイサの本当の名前を口にしている。そのせいかぐっとジャンとの距離が近く感じられた。名前とは案外自分で思っているより大事なものなのかもしれない、とイサは思った。


「はい。オウガストさんが呼ばれた時に不自然じゃないように本名にするよう言ったので」


「成程」


 イサの部分だけが本名だった理由を伝えると、ジャンは納得したとばかりに頷いた。そうして、氷色の瞳でじっとイサを見つめてくる。

 怒っているようには見えない。けれど、こちらから黙っているわけにもいかずイサは思い切ってジャンに尋ねることにした。


「あの……それで、私はこれから」


「では、今日の業務はこれで終了とする。帰って休め」


「えっ?、あのっ」


 てっきり今後について話をするものだと思っていたのに、話の腰を折られたイサは拍子抜けした。

 業務終了とはどういうことだろうか。帰って休めとは。明日からはどうすれば良いのか、てんでわからない。だというのに、ジャンはすっくと立ち上がると、イサに背を向けてそのまますたすたとドアの方へと歩いて行ってしまう。


「ま、待ってくださいムール統括長!」


「何だ」


 咄嗟に椅子から立ち呼び止めたものの、ジャンは振り向かない。イサの方を見ようともしていない。イサはショックを受けた。先程まではちゃんとこちらを見ていてくれたのに、やはり騙していたことを怒っているのだろうか。


 ジャンのことを良い上司だと思っているだけに、嫌われるのは悲しかった。それに案内所での仕事にもようやく慣れ始めた頃なので正直言って辞めたくない。


 イサの喉が緊張でごくりと鳴る。手にじわりと汗を掻いていた。それを、ぐっと握って勇気を振り絞り本題を切り出す。


「私は……クビでしょうか」


 重々しい口調で問いかけるイサに、ジャンはぴくりと肩を揺らして反応した。が、やはり振り向かないままに彼はふむ、と一呼吸置いてから話し始める。


「いや。それはまだ早計だろう。そもそも女性が案内人になれないのは月の障りによる魔力の減退が主な理由だ。だがこれまでの君を見る限り……そのような兆候があった記憶はない」


 確かに、とイサは記憶を辿った。このシュトゥールヴァイセン案内所で案内人になってから暫く経つが、自分の体調に変化を感じたことはない。魔力を持っていなければ使用できないとされている魔術パッドも問題なく使えているし、健康状態も元の世界と差はないように感じられる。


 つまり、イサにはこの世界の女性への定義はあてはまらないのかもしれない。ジャンの言葉でそこに気づいたイサは、ということは、と結論を導き出した。


「まだ働いてもいいってことですか!?」


「ああ」


 イサが返事を求めると、ジャンが肯定をくれた。相変わらず背を向けたままだが、それでもイサは嬉しくて思わず笑顔になってしまう。


「ありがとうございます! あの、始めてお会いした時に懲罰のお話を伺ったと思うんですが、私はどんな処分を受けるんでしょうか? 私、減給でも休日出勤でも何でもやります!」 


 イサがそう言ってようやく、ジャンが驚いたようにぱっと彼女に振り返った。というより、ジャンは実際少し驚いた顔をしていた。彼の氷色の瞳がやや大きくなっている。それと、なぜか目尻がほんのり赤い。


「それは……」


 イサはオウガストと始めてこの案内所を訪れた時、ジャンが女性はフロアに立ち入ったら懲罰ものだと言っていたのを思い出していた。ジャンは理解を示してくれたが違反は違反である。なのでイサはそれについて聞いておきたかった。けれど、ジャンはイサの顔を見るなりなぜかふいと目線を逸し、ごほん、と咳払いを一つしてから口を開く。


「何でもなどと、軽々しく口にするんじゃない。それに、君の場合は事情が事情だ。原因は不明だが検知に引っかかったわけでもない。よって懲罰には値しない。望んでここに来たわけではないのだからな。あと懲罰と言ったのは俺の個人的な理由もあった。だから気にするな」


「は……はいっ。ありがとうございます!」


 視線を逸したままではあったものの、ありがたいことにジャンは広く理解を示してくれた。懲罰という言葉を口にするほどの彼の個人的理由というのは少し引っかかったが、何にせよ職を失わないうえ懲罰も無し、つまりノーダメージで済むと知ってイサは大いに安心した。


「今日は色々と……その、衝撃を受けた部分もあっただろう。早上がりにしておくから帰って休むといい。だが明日は通常通り出勤するように」


「わかりました。お疲れ様でした」


「ああ……」


 イサはジャンの申し出をありがたく受けることにした。すると彼は普段とは違って少し歯切れの悪い言い方で彼女に明日の指示を出すと、そのまま顔を背を向けて退出していった。


 そうして一人になった医務室で、イサは胸を押さえて長い長い安堵の息を吐いた。


 上司の懐の広さに深く感謝をしながら―――すぐ外にいる、ジャンの様子に全く気付かずに。


「っ……イサ・カブラギ、か……」


 シュトゥールヴァイセン案内所の統括役、ジャン・ムールはその名前を再び口にした瞬間、己の顔に熱が集まるのを感じていた。片手の甲で口元を塞ぎ、それが右手だったことに気づいてはっとする。


 その手は、彼が治療と称して彼女の―――イサの胸に直に触れてしまった方の手である。


「〜〜〜〜〜っ!」


 触れたときの感触や、温度をありありと思い出してしまったジャンは声にならない息を零し、ややふらついた足取りで職場であるフロアへと戻っていく。


 彼の上着である白い白衣を、医務室に置き去りにしていることをすっかり忘れて―――

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