第4話 現実の距離
年を越して一月下旬。僕は既に指定校推薦で志望校合格していて悠々自適。登校日数も少なくなり、校内でのロマンスのロの字もないまま、地味男子らしく自宅でゴロゴロしている。
「和哉あ、悪いけどお砂糖買ってきてくれない?」
階下から母の声。
「はーい!」
素直に返す良い息子の声。
普段着のまま潜り込んでいたベッドから抜け出た僕は、若者らしい軽快な動きで階段を下りる。
「外寒いよ。はい」
母から手渡されるヘルメット、マフラー、手袋。これは返事する前に準備していたな。
冬休み中に取得した原チャ(正しくは原動機付自転車というらしい)の免許。「どうせなら車の免許取ればいいのに」と母は言ってくれたが、父が「父さんは自分で稼いだ金で免許を取った」とふんずり返ったので、僕は仕方なくバイト代で取れる原チャの免許と中古のカブで妥協した。
その父親に半分以上主導権のあった選択もまた、僕の人生のミシン糸を運命に向けて進ませていたのだと思うと、なんとも言えない気分だ。
「じゃあね、砂糖と、舞茸かぶなしめじ、どつちかお得な方と、パプリカと」
「ちょいちょいちょい! 砂糖だけじゃないの? それに、お得な方って分からんし」
ブツブツと不満を並べる僕を見て、意外と先進的な母はスマホをサササと操作して、買い物リストをLINEで送ってきた。その後ご丁寧に「よろしくうっ」とけたたましく動くレッサーパンダのスタンプを付けて。
しゃあない。舞茸とぶなしめじは、画像を送ってどっちが良いか聞こうと決め、僕は愛車に跨った。
原チャで安全運転。時速三十キロで片道五分。最寄りのスーパーでお買い物。なんでもない一日に、ちょっとしたトキメキのスパイス。
――わっさんにも観に来て貰いたいな、卒業公演。
うめちゃの通う学校の卒業公演が、都内の小さな区民ホールで行われるらしい。
公演のメインはマルチタレント科全学年による「三文オペラ」だ。そのミュージカルでジェニー役を演じるといううめちゃに「頑張ってね」と送ったリプに対する反応がそれだった。ジェニーが何者か知らないけど。
「わっさん」というのは僕のこと。和哉の和を「わ」と読ませた単純なアカウント名。
そんな名前でも、うめちゃに呼ばれるとドキリとする。
この時ほど県内の大学に進学を決めたことを後悔したことはない。都内にしておけば良かった。ほんと。マジで。
――今年はちょっと無理だけど、いつかは必ず観に
そこまで打ってしばし静止。
「ちょっとすみません」
生鮮売場通路で止まってしまった僕に、後ろからご婦人が「すみません」という言葉とは結びつかない威力でもって僕を押しのけた。
ここでスマホを落とすのはよくある話。実際僕もスマホを落とした。ただし、買い物かごの中に。
マンガとかでよくあるうっかり誤送信も、画面バキバキも、何も起こらなかった。
母の選択による舞茸がクッションになって、スマホはノーダメージ。その証拠に、母から新たな司令が送られてきた。
――油揚げも買ってきて。カットされてる奴。今日使うから、おつとめ品でいいからね。
(意味もなくけたたましくバク宙するナマケモノのスタンプ付き)
「おうおう、今日のメニューが目に見えるぜ」
なんて口に出さずに顎を撫でながら、さらにスマホでメッセージを打ちながら、油揚げに向かう。
十年前。もう既に「歩きスマホ」って言葉は社会悪として存在していた。その歩きスマホをした罰なのだろう。
――今年はちょっと無理だけど、次は必ず会いに行くね。
勇気を振り絞ってランクアップさせたメッセージを、僕は母に送った。
そのショックを引きずっていたのか、帰り道で僕は誰に迷惑かけることなく、勝手にひとりで歩道の縁石にぶつかり、勝手にひとりで転んで、左手首と右足首を骨折した。
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