ヘルの飼い犬

 変わった魂と出会った日の夜。

 

 ラティは世界樹にある自分の住処にて、寝るための準備をする。

 住処とは言っても、トネリコの板材を並べただけの床を、世界樹の枝や葉で囲んだ空間だ。

 強度が足りなすぎて、ちょっと木が揺れるだけで落下しそうな不安定感がある。


 だけれど、世界樹の清浄な空気は格別で、すでにここから離れては寝れない体になってしまっている。

 多少の不快感は我慢するしかない。


 寝巻きに着替えてから、綿と布で作っただけの簡素なベッドにもそもそと潜り込み、そばに吊るしたランタンの炎を消す。


 それでも真っ暗闇にはならない。


 世界樹の葉っぱからは絶えず青白い粒子が放出されていて、ラティの住居の中もそのおかげでほんのりと明るいからだ。


 世界樹の枝や葉が擦れる音を聞きながら微睡んでいると、バキッと細い枝を踏み抜くような音が、住居の外から聞こえてきた。

 せっかく最高な気分で寝ようとしていたのに、台無しだ……。


 とはいえ、放置も出来ず、仕方がなしにラティはベッドから出て音の方向に向かう。


 生い茂った葉をかき分けて顔だけ外に出す。


 視界に入ってきたのは、一頭の大きな犬だ。

 黒と灰色のツートンカラーの体毛に覆われた体は、やや細く、狼犬のような外見をしている。パッと見、かなり凶暴そうだ。

 しかし、見た目とは裏腹に、ラティと目が合っても襲いかかってくるなんてことはなく、ヌッと鼻面を近づける。


「ガルム、君が来るとは想像もしなかったな」


 この狼に似た犬ガルムは、ナーテを冥府から追い返した、いわば門番のような存在だ。だからニヴルヘイムに常駐しているのが普通であり、こんなところまで世界樹を伝って登ってくるのは違和感がある。

 ……というか、こんなことは初めてだ。


 ガルムは鼻面を一度引っ込めたと思うと、ぐんにゃりとその外見を変化させる。

 犬の姿から、十代半ばくらいの人間の少年の姿に変わった彼は、スッキリと整った顔立ちをしている。しかしその目は犬の時と同様に鋭く、銀の瞳にほんのひと雫の狂気を宿す。

 彼は慣れない様子で黒衣の裾を持ち上げ、「邪魔するよ」とラティの住居に上がり込んできた。


 一応ラティは人間の女の姿をしているし、ガルムも人間の少年の姿をしているが……、元々はリスと犬ころなので問題はないだろう。


「なんか飲む? とは言っても、大抵の飲み物は喫茶店に置いていて、ここには水と麦酒くらいしかないけど」

「いらないよ」


 ガルムは適当なところにどっかりと座る。

 この様子、居座る気満々である。


「ヘルから許可を貰ってから来たの? 彼女は君のことを雑に扱いがちだけど、急に居なくなったら怒るんじゃないかなぁ?」


 ヘルは女神であり、冥府の支配者でもある。

 ガルムはヘルの飼い犬だから、こんな風に単独で現れると、脱走を疑ってしまう。


「そのヘルに首輪を外され、ここまで登ってきたんだよ」

「それはますます驚いた。もしかして、ナーテ––––––君がニヴルヘイムから追い払った魂を追いかけてきたとか?」

「あの人間の魂のことじゃないよ。というか、自分が追い払ったのに、自分で追いかけてくるわけない」

「ヘルのところから逃亡する口実にするために、ナーテを全く別の場所に飛ばした可能性もあるじゃん?」

「僕がヘル様を裏切るわけないじゃん!」

「忠犬だねぇ」

「ガルルル……、腹が立つ……。けど今は用事が優先だ」


 ヘルの教育が良かったのか、ガルムは目だけでラティを威嚇し続けながら、ここまで登って来た理由を話しだす。


「ヘルはミズガルズに生息する人魚たちに対して腹を立ててる。あいつ等、本来ヘルのところに来るはずの魂を、ずっと拘束し続けてるんだ。これほど迷惑なことはないよ」

「あー、実は今日人魚がカゴの中に魂を集めて、監禁しているって話を聞いたなぁ。それと同じ件?」

「誰からその話を聞いた?」

「オーディン。ちょっと待って、なんで君まで人魚の話を私にしに来たの?」

「だって、お前、ミズガルズと頻繁に行き来してるんだろう? だったらミズガルズに住む人魚のことを少しは知っているかもしれない」

「私は元々リスなんで、海に行こうと思ったことすらないんだよ。海に居る生き物のことなんかさっぱり分からないや」

「でもオーディンからその話をされたってことは、お前に人魚の件を解決してほしいって思ってるからじゃ?」

「君にしては察しがいいな。実はあの人から人魚たちのところに行くように言われてるけど、なんだか気が進まなくてさー、ナーテとダラダラ雑談しちゃってたよ」

「駄目じゃん。一緒に行ってやるから、早く準備しなよ」


 迷惑すぎる申し出に、さすがのラティも眉間にシワを寄せる。

 何が楽しくて、犬ころと海まで行かなきゃならないのか。


「え……、今から寝ようとしていたんだけど」

「そんなの関係ないよ! 僕はそんなに自由に動き回れるわけじゃないんだから、早く早く早く早く!」

「うるさ……。しょうがないなぁ」


 ラティは眠い目を擦りながら、しぶしぶ外出の準備をする。


「ミズガルズのどこに行けばいいのか、リスは知ってる?」

「んー、分からない。でも、ナーテの恋人さんが人魚の研究をしていたはず……。研究所に行って、色々と聞いてみようかな」

「それはいい考えだ! 行こう!」


 ガルムはラティの迷惑も考えずに、住居の中でボフンと元の姿に戻る。

 おかげで外壁や床が破壊され、家財もろとも落下したのだった。



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