第38話 スイート・ホームがつくれたらええな

 思わず、つぶやく。

 「沖縄の先やのうて鹿児島の先なんやけど」

 朱実あけみが「駆け落ち」して行った先は。

 それより。

 なんや、先生、やっぱり泣きかけてたんかいな、と思う。

 あのとき、先生は泣きかけていたのだ。その気もちが、ピアノを通ると、泣きたい気もち、というのではなく、悲しさとか、美しさとか、そして、あの先生が「端整」といった感覚――そういうものになって、朱実に伝わってきた。

 それは亜緒依あおいも同じだったに違いない。

 先生のスイート・ホームがつくれたらええな。

 ほかの年賀状を読むのは後にして、もちろん宿題の数学も後にして、朱実はまず先生に返事を書こうと思った。

 本棚から、何か月も、もしかすると一年以上も使っていなかった便箋びんせんを引っぱり出す。

 引っぱり出しながら、朱実は窓の外を見た。

 山の裾野の上のほうにあるこの家からは、あずさ神社からほどではないけれど、平野が一望できる。

 しかも、朱実の部屋はその家の三階だ。この家の中で見晴らしはいちばんいい。

 三が日を過ぎて車が増えたのか、それとも天気の関係か、あのお正月の空よりは灰色がかっていたけれど、それでも、遠くの高速道路や河沿いの町が見えた。

 空が灰色なのも、排気ガスでくもっているからかも知れない。でも、それはそれで町の活気を伝えてくれているようだ。それも、いい。

 お母ちゃんも、自分の家をいびり出されるようにして出て、それで駆け落ち同然でお父ちゃんといっしょになり、そして、いまはここの家に住んでいる。

 そういうところに生まれたのが、とっても嬉しいと朱実は思う。

 ここは、お父ちゃんとお母ちゃんのスイート・ホーム。

 そして、朱実のスイート・ホーム。

 朱実は、目を閉じて、あの「ホーム、スイート・ホーム」のメロディーを思い出し、何度かいいかげんに口ずさむのを繰り返してみた。

 それから、便箋を机に置き、椅子を引っぱり、これもしばらく使わなかった硬筆習字用のペンを取り出して、便箋に向かってひな子先生への返事を書き始めた。


 (おわり)

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