第29話 「ホーム、スイート・ホーム」

 亜緒依あおいもうっとりしたように目を細め、聴き入っている。

 たしかに、懐かしさとか、胸がきゅっとするような感じとか、そういう感じをいっぱい感じさせてくれる。なのに、端整だ。そのいっぱい感じる感情に、音楽自身が溺れていない。

 そのほうが、そういう感情が、激しくはならないままにずっと伝わり続けてくる。

 そうか。お母ちゃんが保護者会のあとで言うてた、この先生はしっかりした人やというのは、ほんとやったんやな、と思う。そういう人でないとこの音楽は支えきれないだろう。

 「埴生はにゅうの宿……」

 曲が二回繰り返したところで、亜緒依が、何かに心を奪われたように言った。

 「ああ、そうか」

 朱実あけみもふっと思い出す。

 「もとの題名は「ホーム、スイート・ホーム」て言うて、もう二百年ほど前のイギリスの歌」

 先生はそう言い、笑顔で二人を振り返った。

 はっとした。

 その笑顔が、穏やか、というよりも。

 あの、先生がいじめられ先生だったころ、悪い子どもたちにいじめられて泣き出す寸前に見せていた、あの表情に思えたからだ。

 先生は、前を向いて、その「ホーム、スイート・ホーム」の曲をBGMにしながら、話し始めた。

 自分の演奏をBGMにできるなんてすごいと思う。そのままその気もちは忘れた。

 「先生、さっき嘘ついた。嘘ついた、言うのかな、一部分、言うてないことがある」

 亜緒依が真顔になって、その話を聞いている。

 「結婚の話はたしかにあったんよ。親がセットしてくれた見合いで。それで、その相手の男のひとと気が合うて、結婚することにした。で、好きなことと、もっと好きなこととがあるんやったら、そのもっと好きなことをするほうがええ、て、言うてくれたんは、じつはその男のひとやった。だから、わたしはイギリスに行った」

 先生は、前を見ていた目を鍵盤に落とす。自分の押さえているキーを確かめるようにしながら、続ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る