第30話 ほんと帰ってきてよかったって思うた

 「ほんとにええの、そのあいだ待っててくれるのって、何度も確かめた。待っててくれるて言うてた。でも、そのひとはようても、親御さんが怒ってしまわはったんやな。自分の息子を待たせて勝手にイギリス行ってしまうなんて、て。で、うちの親が説明に行っても家にも上げてくれんかった。それで、そのひと、さっさと別の女の人と結婚してしもうた。そんな事情やからようわからへんけど、その相手の人、そのひとの親御さんの知り合いの娘さんいうことや」

 先生はふうっと長く息をつく。

 「ほんとは、この正月の帰国も、その結婚のためのあいさつやら打ち合わせやら、そういうことのために、イギリスに行く前から予定してたことやった。でも、それがふいになってしもうて。もう帰らんとこかな、と思うてたけど、やっぱり生まれたとこ見たかったし、この町、歩いてみたかったし、それに、イギリスで習うてる音楽の先生に「結婚するつもりやったんですけど、だめになりました」って説明するんもいややったし、それで、帰ってきた」

 それで、朱実あけみ亜緒依あおいを振り返る。目は潤んでいた。

 「そしたら、あんたらに会えた。ほんと帰ってきてよかったって思うた」

 また、前を向く。

 「ふしぎやな。この歌ができたころ、イギリスでも、蒸気機関車ぐらいはあったかも知らんけど、電車もなかったし、飛行機もなかった。いまのロンドンみたいなきらきらした高いビルもなかった。そんなところで生まれた歌が、いまもこうやって、人、感動させる力を持ちつづけてるんやから」

 あ、泣くぞ。

 そう感じたのは、小学校六年生、最後の学級委員の直感だろう。

 先生は、言い終わって、その「ホーム、スイート・ホーム」の曲に力をこめた。

 杭を打つように低音を鳴らす。その音は軽く痺れるような揺れを朱実の体に伝えた。

 ピアノというのは、弦をつちで打って音を出す楽器だ。その弦を打つ力が、すぐ近くに立つ朱実の体にまで伝わってきても、それはあたりまえだろう。

 その激しい低音に、高い音は、まん中あたりからいちばん高いほうの音までを混ぜながら答える。その激しい低音の感じを残したまま、曲はきらきらと、悲しい感じを漂わす旋律へと変わって行く。

 でも、曲は、徐々にその悲しい感じから抜け出し、もとの「埴生の宿」の旋律に戻っていた。

 その旋律を繰り返してから、先生はゆっくりと最後の和音を押さえた指を鍵盤から放した。

 ペダルから足も放したところで、朱実と亜緒依のほうを振り向く。

 今度は朱実は胸の前でせいいっぱい拍手した。

 先生は恥ずかしそうな笑いを浮かべている。

 泣いていない。

 かわりに、自分のほうが泣き出しそうになってると、朱実は感じた。

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