第28話 みんな聞くね、やっぱり

 義理の拍手ではなかった。

 これだったら、プロと言われても十分に納得がいく。こんなひとが、コンサートホールの舞台で弾いているのではなくて、荷物を持ちきれなくなったあげくに恥ずかしい荷物を路上にぶちまけ、そのあと、自分の家で、無名の高校生二人を相手にピアノを弾いているというのがふしぎなぐらいだ。

 こんな才能の持ち主のスカートを持ち上げてあおってきりきり舞いさせて泣かせていたのかと思うと、こっちが恥ずかしくなる。

 自分でやったことではないとしても。

 ひな先生は、軽く頭を下げてから、ほっと息をついて息を整えた。

 「次、何こ?」

 朱実あけみは思いつかない。亜緒依あおいが言った。

 「な、先生、音楽の勉強にイギリスに行かはったん、なんか理由があるんでしょ?」

 「みんな聞くね、やっぱり」

 ひな子先生は、緊張が解けたように、恥ずかしそうに笑った。

 「なんで、音楽の勉強に行くのに、ウィーンとかパリとかアメリカとかと違うの、って」

 亜緒依は返事をしなかった。きっとそういう意図ではなかったのだろう。

 朱実はおかしかったが、黙っていた。

 音楽を習いに行くならウィーンとかパリとか、そんなことは自分も思いつかなかったから。

 ひな子先生が上のほうに目線をやりながら答える。

 「イギリスの音楽って好きやった。なんか端整で、ロマンチックになりきれへんところがあって、ロマンチックになったらもっとかっこええのにと思っても、なんかそうなられへん。そういうところが好きやったから。だから、行くんやったら、イギリスかスコットランド、て決めてた」

 そう言って、また、朱実と亜緒依の顔を笑って見上げる。

 亜緒依が言った。

 「じゃあ、そのイギリスの歌が好きになったきっかけの歌みたいなんがあったら、聴かしてほしい、って思いますけど」

 ひな子先生が朱実の顔もちらっと見る。

 朱実も笑顔をつくって頷いた。

 ひな子先生は、もういちど、息を整えてからピアノに指を置いた。

 ためらいも迷いもないようだ。先生は鍵盤に指を沈めた。

 音楽の時間にピアノは習ったから、ピアノの鍵盤の重さは知っている。けっして軽々と弾ける楽器ではない。

 でも、先生の鍵盤づかいを見ていると、ほんとうにその指先で綿をほぐして細い糸を紡ぎ出すような、そうやって音楽を紡ぎ出しているように感じられた。

 紡ぎ出されてきたのは聴いたことのある曲だった。何度も、いろんな場所で、いろんな音で聴いたと思う。

 でも、題名が思い出せない。

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