第101話 波の題目 ヤコブの梯子

 昭和14年9月中旬 佐渡郡相川町 料亭「吾妻」


 猪俣津南雄いのまたつなお博士は、ふと気がついた


「そこのお嬢さん、なぜ泣いているの?」


 私(本間花音ほんまかのん)は涙が止まらなかった。


 右翼の大物、小林順一郎氏は私に言った


「お嬢さん、未来が見えると言ったね。君は本当に未来から来たのかね?」


「誰も信じてくれないと思っていましたが……猪俣先生の話を聞いていて、グスッ……すみません」


「君の言うことを信じるから、話してくれないかい?」


「先生がおっしゃること、私が学校で習ったことと合っているんです」


「まさか!」


「日本は昭和20年8月に戦争で負けそうになった寸前、国土が焼け野原になったドサクサに紛れてソ連が日本に宣戦布告をして来ます」


「なんと、それは本当なのか?」


「私はずっと新潟港から出て行く満蒙開拓団を黙って見ていました。彼らの大多数は満州国に侵攻してきたソ連軍に殺されるのです。男性は殺され、女性は強姦されて殺され、こどもは飢えて死ぬ。それを知りながらずっと黙って見ていました、……本当にごめんなさい…………見ていて、知っていて言わないって罪ですよね……私、クリスチャンなのに……」


 涙が止まらない


「お嬢さん、君が言っても何も変わらない。誰も信じない。長州閥のクルクルパーのビリケン頭のバカ息子(寺内寿一のこと=ナチスドイツとの同盟を進めた最責任者)には物事を考える脳みそはない。東条英機のハゲアタマは頭の毛と一緒に脳みそまで抜け落ちた。泣くのはおし。君にはどうにもこうにも止められないんだから」

(右翼の大物、小林順一郎さん絶好調)


「あとさっき、アサヌマ・イネジロウと仰いましたよね。間違いなく将来、『社会党』という政党の党首になっていますから……」


「ほう、あの早稲田で私の話を熱心に聞いていた浅沼君が『党首』か、ワハハは……さすがは見込んだだけある。未来は少しは明るいかもな」


 私は知っている。さっきの話に出てきた浅沼稲次郎氏。社会科の教科書で、演説中に右翼の青年に刺殺される「浅沼」という写真が載っていたことで覚えていた。ただ将来暗殺されるという話はしなかった。


 あまり明るくない未来だ

 私は暗殺されるという話はしなかった。


 ◇◇◇


 私たち一行は、病気の身の猪俣津南雄先生とご婦人を連れて、佐渡の小木の近くの真浦まうらの浜から漁船に乗って柏崎の鯨波の漁師町まで行き、長岡に行くこととした。


 我々を乗せる船は以前に憲兵隊から逃れるために、西蒲原の間瀬の漁港から寺泊の漁港まで運んでくれた海軍退役軍人の漁師の漁船である。

 奥山佑少尉が手配した。


 真浦の浜には北一輝先生が崇敬した日蓮聖人にちれんしょうにんの記念のお寺があるらしい。

 日蓮聖人はここから本土に向けて出港した。

 その時に海に「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」の文字か浮かんで見えたという。


 クリスチャンにとっては佐渡の相川は殉教者の地で、中等部の修学旅行で訪れたことがあるが、仏教の遺産の見学は初めてだ


 私たちは日の出前に小さな漁船に乗って出発した。

 夜明け、海の向こうの本土の方から、雲の隙間から光が差し

「ヤコブの梯子(Jacob's Ladder)」(薄明光線・エンジェル・ラダー)が見えた。

 きっと日蓮聖人も同じ物を見たのだろう。


 日蓮聖人はそこに「お題目」が見えたに違いない。

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