第95話 海の向こう

 昭和14年8月末 佐渡郡両津町


 小林順一郎こばやしじゅんいちろう氏と宝剣乃亜ほうけんのあの二人が北一輝先生のお墓参りに行く間に、私(本間花音ほんまかのん)と奥山佑おくやまたすく海軍少尉、瞽女の石崎タツの三人で両津湊の海と反対側の方の街に来た。

 奥山少尉は、あれが「加茂湖」だという。

 夏の夕暮れ、湖面に映える夕陽がとても美しく幻想的だ。

 佐渡はなんて綺麗な場所なんだろう。


 そして街中を歩いていくと、人通りが賑やかになってきた。

「金澤楼」の看板がかかっている門がある。

 奥山少尉は、ここは遊郭だと話した。花街である。

 どうりで賑やかなワケだ。


「猪俣津南雄先生の行方は……このあたりの宿屋に聞いてみるとするか」と奥山少尉は遊郭の近くの旅行客が泊まりそうな宿屋に行った。


 個人情報もへったくりもない昭和初期、宿屋の主人は宿帳を見せてくれた。

 ずいぶんとおおらかな時代だ。


「高野實……」

「どうかしましたか?」

「猪俣(津南雄)先生の弟子だ。この宿に泊まっている」


 もうビンゴである。なんて早い展開……


 奥山少尉は宿屋の主人に聞いた。

「この高野(実)という人物は、どこに行くか言ってませんでしたか?」


「恩師の見舞いに、新穂潟上にいぼかたがみの温泉に行くと言っていたなぁ。人力車を手配するとか」


 なんてあっさりと教えてくれるんだろう(笑)


「ありがとうございます。もう夕暮れですので、今晩この宿は空いてますか」

「たびのもんかね。ああ何人だね?」

「5人、男2人、女3人で」

「二部屋か。6畳間が一つ、そして住み込み人の3畳間の部屋がある。まあ、まけとくっちゃ」


「ありがとうございます。おタツさんと、おカノさんはここで待っててくれ。私は小林先生を探してくる」


 全員と合流したが、飛び込みの宿だったので食事は用意されていなく、賄い用のモノだった。

 ご飯と魚のアラから出汁をとった汁、そしてお盆も近いので「いごねり」を出してくれた。賄いなので料金はいらないという。


 佐渡の人はふとっぱらだ。

 もう令和の時代から来た私たちは、昭和の料理にすっかりと馴染んでいた。


 小林順一郎氏はお銚子を1本頼んだ。奥山少尉は警備の為、酒はまったく飲まない。

 酔ったところで、右翼の大物、小林氏に猪俣津南雄さんのことを聞いた。


「なぜ、あなたのような『右翼の大物』が『左翼の大物』を探しているのですか?敵対関係ではないのですか」


「ははは」小林氏は少し酒が入っていて大笑いをした


「君はメビウスの輪というものをご存じか」

「はい……長く切った紐のような紙をねじって繋いだものですよね」

「そう。右翼も右に行きすぎると左とくっつく」


 宝剣がいう

「バカと天才は紙一重……」


「こら!意味が違う!」

「宝剣君か、君はおもしろいことを言うな。右と左は紙一重だよ。さっき北一輝先生のお墓参りにいっただろ」


「はい、右翼の思想家だと聞いていますが」

「いまのような天皇制を否定して、人民の国家を作ろうと言ってたんだ」

「そうなんですか!?」


「ああ。みかどのそばにくっついて悪い政治をしたり、あくどい商売をする者を取り除くとね」


「それが226事件ですか……それでは猪俣津南雄先生は?」


「マルクス主義をご存じかな」

「教科書で名前を見ただけで……」


「猪俣博士は日本社会の労働者や農民の貧困の研究をしていく中で、ドイツのマルクスやソビエトの共産主義をそのまま日本に当てはめることはできないとして、我が国の社会を深く研究し、社会の成り立ちの原因をつきとめて、それを解決していく方向を考えていた。だからソビエト共産党の方針を尊重するグループと対立していた。治安維持法のムチャクチャな解釈で、司法官僚らに捕まえられて……」


「この時代ですから……」


「猪俣博士は最初にソビエトのコミンテルンの指令を受けていた。その方針とはたもとを別ったが、アメリカで活動していた時代に多くの人脈がある。猪俣博士は大正4年(1915年)から大正10年(1921年)までアメリカに留学していたが、その時にレフ・トロツキー※と接触している。トロツキーは外務人民委員、ソビエトの外務大臣の時代だ」


「トロツキーは聞いたことあるような……」


「簡単に言えば、今のソビエトのスターリン政権と真っ向対立している人物。猪俣先生はトロツキーとも関係があり、彼の元妻はアシュケナージ(アシュケナジム・東欧系ユダヤ人)でトロツキーの秘書だったとの話だ。とても人脈が広い。そしてもうひとつ彼は……」


「それはなんですか?」

「アメリカのルーズベルト大統領の中枢に入った共産主義者を知っている。それはスターリンのスパイだろうと考えている」


「ソビエトはトロツキーと関係があって、スパイを知っている猪俣博士を消したいということですか」


「そうだ。そのスパイ達はアメリカ中枢でソビエトの指示で動いて、アメリカが日本へ戦争を仕向ける計画をしているらしい。そしてもう一つ……」


「なんですか?」


「日本の政権の中枢、右翼のフリをしてソビエトの指示で国民を扇動しているスパイも把握しているらしい。日本と支那(中国)との和平工作を妨害し、日本と戦争を拡大しようとする存在だ」


「なんのためにそんなことを……」


「日露戦争の恨み。ソビエトに邪魔な日本を中国との戦争で疲弊させ、アメリカからも日本を攻撃させて徹底的に破壊して、日本で共産主義革命を実現するのがスターリンの狙いだ」


「日本とアメリカとの戦争を起こさせようとするということ?」


「そう。そのアメリカのスパイの鍵を握っているのが猪俣津南雄博士だ」


※レフ・トロツキー

ここで解説するより、多くの解説があるのでそちらを読んでいただければと思いますが、現在のウクライナ出身のユダヤ系のロシア革命の指導者です。アシュケナージとはヘブライ語でドイツのことですが、東欧のユダヤ系の人を指します。猪俣津南雄氏のアメリカでの妻もアシュケナージです。

トロツキーは日本語が少し理解できたと言われ、それが猪俣津南雄氏との関係という説があります

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