第93話 理由(わけ)ありの月

 

昭和14年8月末 


 新潟港を出港した第八佐渡丸は信濃川の河口をゆっくりと走っていた。

 左手には新潟臨港株式会社の専用の港が見える。

 大河信濃川の中に出来たこの港は、大陸との貿易で大きな船が泊まり賑わっていた。


 私の未来の時代、令和の時代にはこの手前には北海道航路の大きなフェリーが泊まっているはずだろう。


 川面を渡る佐渡行きの客船は静かに滑っていく。

 カモメもきて船の上を舞う。


 甲板には大勢の客が河岸に停泊している姿を眺めている。

 

 客は三々五々中に入り、そして船は日本海に出た。


 船の縦揺れが始まった。

 速度はそんなに速くはないが小さいために良く揺れる。


 私(本間花音ほんまかのん)は少し目眩めまいがするような感覚に襲われ、これは船酔いだと感じた。


「お嬢さん、大丈夫かい」

 右翼の大物、小林順一郎氏が話しかけてきた。


「酔い止めはないが、薄荷はっか飴があるから、これを舐めるといい」


「ありがとうございます」

「君は育ちの良さそうな子だね、どうして瞽女になったのだね」


「身寄りがなくて」

「そうかい、それは気の毒に」


「ところで『共産主義者』を探すというのは何か物騒な話でもあるのでしょうか……」


「まあ、物騒といえば物騒かな」

 相変わらず眼光は鋭い


「どんな人を探しているのか、教えていただけますか?」


「『左翼の大物』だ。それも超特大級の大物だ」


 「右翼の大物」に、今度は「左翼の大物」かーい!


「はぁ……名前はなんという人ですか?」


猪俣津南雄いのまたつなお、私の長岡中学(旧制)の後輩だ。元、早稲田大学講師、人民戦線事件で逮捕され、ついこのあいだ病気のため出獄の許可をもらった。今は佐渡で療養している」


「いのまたつなお……同じ長岡中学なら、田中菊松大佐が……」


「田中大佐は、『私が猪俣先輩に何かを頼むとは、畏れ多い』と言って遠慮した。だから私が来たのだ」


 旧制中学の先輩、後輩ってそんなに卒業年次を気にするのか? 軍隊も海軍兵学校や陸軍士官学校で、第何期、第何期で、先輩は絶対だと言っていたような。


「その人がなぜ?もしかして暗殺で……」


「ハハハ、そうではない。彼はソビエトのコミンテルンをよく知っている。またアメリカに居た経験が長い。猪俣津南雄君はアメリカの日本人社会のみならず、アメリカでの共産主義運動の中心人物だ。ウィスコンシン大学で博士号を取り、アメリカ共産主義運動についてもよく知っている。彼の妻だったベルタはトロツキーの秘書だったという話もある。何から何までも知っているはずだ。アメリカにおけるコミンテルンの活動も。そして日本共産党運動の黒幕も。片山潜、鈴木茂三郎、すべて猪俣君と関係がある。だから彼を暗殺するなんてことはしない。安心したまえ、武器はすべて護身用だ」


「そうなんですか……」

 一安心したが、この小林さんが何を言っているのかサッパリ分からない。要するに左翼の大物らしいということはわかった。(何もわかっておらんがな)



「あーイルカが泳いでいる!」宝剣乃亜が叫ぶ


「おおイルカのお出迎えか、さあ猪俣君は、運良く見つかるかな」


 海の真ん中、ゆっくりと船は進む。

 佐渡はまだ遠く、青紫に見える。




 

 ※猪俣津南雄いのまたつなお 明治22年生、明治40年旧制長岡中学卒、早稲田大学卒業後に渡米する。

 アメリカ・ウィスコンシン大学で農業経済学を学ぶ。1921年帰国し早稲田大学講師となり、第一次日本共産党の結党に関わる。第一次共産党は解散後、再結党した際には猪俣は加わらず主に在野のマルクス経済学の研究家となった。労農派。

 1937年の「人民戦線事件」では猪俣津南雄、山川均らが中心人物として逮捕された。この時に逮捕された人物は他に鈴木茂三郎、向坂逸郎、美濃部亮吉、江田三郎など戦後の労働運動、社会主義運動の中心人物である。

 アメリカでユダヤ系ロシア人(ベルタ)と結婚し帰国後離婚。日本で再婚したのは『婦人公論』の元編集者・大塚倭文子である。猪俣の弟子に総評の初代事務局長の高野実がおり、猪俣の死後に高野実と倭文子は結婚した。

 その息子がジャーナリストの高野孟である。

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