第90話 南十字星

 昭和17年(1942年)10月28日

 米領ハワイ 太平洋艦隊総司令部


 チェスター・ニミッツ提督は怒りのあまり、報告の電文を床に叩きつけた。

 驚いたことに、アメリカ大統領選挙を間近に控えたセオドア・ルーズベルト大統領の発表でさらに頭に血が上っていた。

 大統領は今回のサンタクルス沖海戦の詳報を「空母1沈没、空母1大破」とありのままに発表したのだ。


 それは事実に間違いないが、

「敵に手の内を晒すバカヤロウがいるか!こいつ撃ち殺してやる!」

 と、机の上に置いたルーズベルト大統領の写真立てを目がけて、拳銃を発砲。


 ズドーン、ガシャーン


 ルーズベルト大統領の写真立てが粉々に砕け散って飛んだ。


 銃声に驚いた秘書官は、司令官執務室に入り、砕け散った大統領肖像画に唖然とした。


「ハルゼーのクソ野郎、あいつのケツも蹴っ飛ばしてやる!」


 ◇◇◇


 USSホーネットは多くの乗組員が退艦し、消火活動を試み、または巡洋艦、駆逐艦による牽引が試みられた。


 航空機格納庫には、倒れ込んだ流血した水兵の死体、そして血を流して息絶えた整備員がたくさん取り残されていた。

 作業にあたった水兵はその凄惨な様子に吐き気を催し、海に嘔吐した。


 牽引作業中にも、日本海軍の航空機が襲来し、米海軍による作業が断念し、撃沈を試みたが、ホーネットはなかなか沈まない。


 そして日本海軍の艦隊が到着した。

 日本側も、ホーネットの鹵獲ろかくを試みたものの、炎上と損傷が激しく断念した。

 アメリ海軍の魚雷6発で沈まなかったUSSホーネットは、帝国海軍の駆逐艦の魚雷3発によって、多くの将兵の亡骸なきがらと共に南海に没していった。


 ◇◇◇

 昭和17年10月30日

 重巡洋艦熊野はトラック泊地に到着、投錨する。


 海軍軍令部は、帝国海軍の空母が没することなく、アメリカの正規空母1撃沈、1大破という戦果を上げたことを祝った。


 が、帝国陸軍はヘンダーソン飛行場への海兵隊基地への攻撃に手間取り、勝機を逸してしまった。この事態に対して水兵はおろか将校までもが陸軍の作戦計画のまずさを大声で批判する事態となっていた。


 戦闘で失われた多くのベテランパイロットの死を無駄にする気か!と。


 辻政信は肝心なところでマラリアの熱にやられ、そして後退するという不手際。

 そしてジャングルという環境を軽視した作戦と戦術。


 すべてがツメの甘い、辻政信のガダルカナルへの攻略作戦であった。


◇◇


 翌日、朝の宮城遙拝きゅうじょうようはいの時間となる

 田中菊松たなかきくまつ艦長は久しぶりにゆっくりとした朝を迎え、艦橋に10分前に到着した。


「総員上へ、を命じよ」

「はい!総員上へ!前方甲板に整列せよ!」


 水兵総員が整列し、艦長は前方に設けられた台に立つ。

 

士官が号令を掛けた

宮城遙拝きゅうじょうようはい!」


 水兵一同が艦上で宮城(皇居)の方を向き脱帽した

「最敬礼!」


「なおれ!」


軍楽隊の「君が代」の演奏の後に、弔銃が三発発射された。


 田中菊松艦長は整列した水兵の前でこう述べた

「本艦は損傷もなく、ひとりの兵員も欠けることなく、今回の作戦で空母護衛の任務を達成した。君たち総員の奮闘に感謝する。常在戦場。勝って兜の緒を締めよ。以上!」


「礼!」


 ザッという音とともに、

 将校水兵一同が艦長に敬礼した。


 田中艦長は厳粛な面持ちで一同に答礼した。



 ◇◇◇

 1946年春頃

 インドネシア共和国(未承認) ジャカルタ郊外 グロドック捕虜収容所


 田中菊松(少将)捕虜は、いつものとおり鍬を持って、畑を耕していた。

 下のズボンはインドネシアの暑さに耐えられるように半ズボンに切って、上はランニングシャツ。

 そしてどこからか手に入れた帽垂布ぼうたれぬのの付いた陸軍式の略帽を被っていた。


 ザクッ、ザクッ、鍬を振り下ろし、時々小石にあたる音がする。


 そこに兵卒らしき捕虜が近づいてきて、田中少将の顔を見た。


「もしかしたら田中菊松閣下でありますか?」


「閣下とは恥ずかしい。確かに田中だ。……君はもしかして、阿武隈、ちがった熊野の砲員だった……」

「よく覚えていてくださいました!磯貝いそがい水兵長です!」

「君は熊野から降りたのか、良く生き残ったなあ!」

「はい。呉に帰っていったん除隊になりました。それから再招集になって、陸戦隊におりました。艦長はスラバヤ方面隊の司令官としてお名前を存じておりましたが…こうしてお目にかかるのも、熊野で生き残れたのも、艦長のおかげです。ありがとうございました。しかし…」


「そう。今は、見ての通り、俘虜ふりょの身だ」

「もしかして戦犯の嫌疑をかけられているとか……」

「嫌疑は晴れている。イギリスが国に返してくれないのだ。私をインドネシア独立運動の不穏分子と見ているらしい……君は復員できそうなのか?」

「ハイ……まもなく……」

「そうか、瀬戸内海に帰って漁師を継ぐのか?…ん、どうした?」

「妹と許嫁が勤労動員先の広島で、大きな空襲があったようで、家族一同音信不通なのです……」


「そうか、それは気の毒に……」



 田中菊松少将は、昭和14年にあった瞽女ごぜの子たちが言っていた「原子爆弾」のことを再び思い出したが、彼、磯貝水兵長にはそのことは言わなかった。

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