第84話 敵機接近

 昭和17年10月26日 午前5時頃 重巡洋艦熊野 甲板


 第三艦隊は02時50分方向転換し、午前5時までに200浬の距離まで距離を縮めていた。


「高角砲員、対空戦闘配置につけ!」


「おい、磯貝いそがい一等水兵はどこだ!」

「さっき便所に行くと言っていたが……」

「遅い!見に行く!」


 重巡洋艦熊野は船速を上げ、上下の揺れが大きくなり、時折、バシャーッっと、

船首から波しぶきがあがっている。

 磯貝水兵は便所で震えていた。


 瀬戸内の生まれで、漁師の家に育った。

 瀬戸内海を行く海軍の軍艦を見て、

 広島に行った時に海軍将校の姿を見て、「自分もああなりたい」と思った。

 しかし、海軍兵学校に入るには成績が足りず、徴兵検査の前に志願して水兵になった。それも1年半くらい前だ。


 磯貝一等水兵にとっては、まさか自分が海軍でお勤めしている間に、アメリカと戦争が始まるなんて思っていなかった。

 広島の町で聞いたジャズの音色。

 だれがこんなバカな戦争を始めたんだ……と便器の上に腰掛けて震えていた。


 熊野に乗艦して、今までは幸運に恵まれていた。

 だが今、すぐ目の前にアメリカ海軍の飛行機が迫っている。


 便所の扉を専任の山田一等水兵が扉をドンドンと叩く。

「おい、磯貝、そこにいるのか!いたら出てこい!」

 揺れる船の中で、「か細い」返事をする磯貝一等兵


「はい……怖くて震えが止まりません……」

「ばかもの!お前がいないと始まらない!早く出てこい!」

「怖いのであります」


「その目の前、扉に貼ってある『男の修行』を大きな声で読め!」


 山本五十六連合艦隊司令長官の言葉である


 苦しいこともあるだろう

 いこともあるだろう

 不満なこともあるだろう

 腹の立つこともあるだろう

 泣きいこともあるだろう

 これらをじっとこらえてゆくのが

 男の修行である



「磯貝、解ったか!艦長を信頼しろ!」

「はい」


 便所の扉が開いて、真っ青な顔で磯貝水兵は出てきた

「貴様、船酔いか?」

「少し……」

「漁師の親父が泣くぞ、ほら早く来い!」


 磯貝一等水兵は九六式25粍機銃ミリきじゅうの後ろに配置に付いた。

 熊野の後方、数百メートルに空母翔鶴がいて、チカチカと光の信号がこちらに送られている


 「水兵員整列!」と対空戦闘指揮官が叫ぶ。


 水兵が並ぶ。


 午前6時30分

 翔鶴から零式艦上戦闘機が発艦していく

 

 ブーンとエンジン音を轟かせ、左脚、右脚が順番に翼に収納される様子がよく見て取れた。


「帽振れ!」

 水兵達は「大日本軍艦熊野」のペンネントのついた軍帽を飛行機に向けて振った。


 翔鶴飛行隊長、村田重治むらたしげはる少佐が率いる第一次攻撃隊の発進であった。

 零式艦上戦闘機4機、九七式艦上攻撃機20機が、次々と揺れる空母翔鶴の飛行甲板から飛んで行った。


◇◇◇


 午前7時10分 重巡洋艦熊野 船檣せんしょう

「敵機発見!方位160、距離20,000、高度800!」



 田中菊松たなかきくまつ艦長の声は落ち着いていた

「後続の艦に『敵機見ゆ』の信号を送れ」

「了解!」


「対空戦闘用意!」

 サイレンが艦内、甲板に鳴り響く


◇◇◇


 九六式高角砲の配備についた磯貝一等水兵は、先任の山田水兵からハッパを掛けられた。

「オレが撃たれたら、お前がオレの代わりになるんだからな!」

「ハイッ!」


※ペンネントとは、軍帽の前章である。鉢巻きのようにして用いる。

 戦前は右から左へと書いたので「野熊艦軍本日大」となっている。

 大戦後期には「大日本帝国海軍」に統一された

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