第72話 インドネシアの夜明け

 昭和14年7月 

 東京市麹町区三番町 第一書房


 田中菊松たなかきくまつ大佐は、佐藤正四郎さとうせいしろう予備役少将によりこの書店に呼ばれ、応接室に通された。

 堀口大學ほりぐちだいがく辰野隆たつのたかし※らのフランス語訳の小説などを出版する書店である。


 ※辰野隆はフランス文学者、ボードレールなどの研究で有名。父は建築家の辰野金吾(東京駅舎の設計者)


 応接室に通されると2人の年寄り(失敬…)が将棋をさしていた。


 1人は、このまえのジジイ……いや東京帝国大学前総長の小野塚喜平次おのづかきへいじ先生もう1人は、ゲッ……わが長岡中学の先輩で一番ヤバイという噂の男


 小林順一郎こばやしじゅんいちろう、右翼の大物である。

(長岡中学 明治25年入学 管理者が変遷したのでこの期間は入学時で記録されている)

 陸軍大臣と大げんかをして陸軍をやめた。皇統派の荒木貞夫あらきさだお真崎甚三郎まさきじんざぶろうと親しい。

 しかし帝大粛正期成同盟※の急先鋒ではないか。それが「学の独立」「大学自治」の小野塚喜平次先生と一緒に楽しそうに将棋を指しているではないか。


 ※東京帝国大学の大学自治などを批判した団体。


 「小林君、かく(行)が無防備だ。いただくぞ」

 「小野塚先輩、待った!」

 「なにが待った、だ。そんなことが通用するとでも思っているのか!」

 

 右翼でも中学の先輩には、弱いようだ……


 「しかしだな。批判するのは別として、学者には手を出すなよ」

 「心得ております」

 「最近、私の後任で南原繁なんばらしげる君がいるだろ。そこに丸山眞男まるやままさおという助手が入った。なにかあったら面倒をみてくれ」

 「しかし、永田鉄山ながたてつざん亡き後の統制派が仕切っている陸軍はろくなもんじゃない。東条(英機)は恣意的徴兵もいとわない、あそうだ、ちょうどいい。佐藤(正四郎)君が来たじゃないか」 


 「はあ……小林先輩、なんでしょう」

 「丸山眞男君とやらが徴兵されたら、海軍に頼むわ!」

 「おいおい……」

 「海軍の事務仕事させればいいだろ。経理とか筆耕とか」


 田中菊松大佐は思った。このジジイら、いや元帝大総長と右翼の総長は、なんて話をしてやがるんだ。

 佐藤正四郎少将は、田中大佐に言った。


 「田中君、私たちのボスはこの人、小林順一郎先輩だ。資金は気にすることない、さあご挨拶だ」


 「先輩、よろしくお願いします」


 「そうそう、関東軍参謀だったかな、大橋熊雄君から手紙が来て、その中身は『東条英機と辻政信をぶっ殺せ』と書いてあった。おもしろそうじゃないか、ははは」


 田中菊松大佐は思った。オレも右翼の仲間入りか……

 それもテロをする一番危険な右翼団体……どんな中学校先輩だよ……



 ◇◇◇


 昭和20年8月15日 オランダ領東インド ジャワ島 スラバヤ(日本占領下)

 帝国海軍 第2南遣艦隊司令部 第21特別根拠地隊司令部


 根拠地隊司令官 田中菊松たなかきくまつ少将は今上陛下の終戦の詔勅のラジオ放送を聞いた後、軍関係書類の焼却処分を通達した。


 司令部の建物の庭から煙が上がっているのを見ていたその時、

 午後3時頃、指揮下の第五警備隊司令官兼ジャカルタ駐在武官の前田精まえだただし少将から電話があった。


 「どうした、前田少将」

 「さきほど、スカルノとハッタの2人が私のもとを訪れまして、日本が降伏したという確証が欲しいとのことです」

 「どう答えたのだ」

 「上からの公式な命令が来ていないと、回答を保留しました」

 「彼らはどういう意図かわかるか」

 「独立宣言を準備しているようです」

 「では、君に任せた」

 「どういうことでしょうか?」

 「協力したまえ、ということだ。私は黙認する」

 「田中少将、それは確かですか」

 「ただ我々が関与したことは解らないようにしたまえ」

 「了解しました」


 電話が終わったあと、田中少将はつぶやいた

 「あ~あ、おれも独断専行の辻政信のマネしちゃった」


  2日後 8月17日、朝10時頃、


 田中菊松司令官はこのジャワ島の東端のスラバヤで、ジャカルタのスカルノ邸から発信されるラジオ放送を聞いた。

 これが「インドネシア独立宣言」である。部下の前田精少将の公邸で起草されたものだ。


 ここの司令部の倉庫にあった武器はインドネシア民衆に解放し、最低限の自衛の武器しか残っていない。


 「大橋(熊雄)先輩、あなたのモンゴルの無念は、私が果たしましたよ」

  ※大橋熊雄中将は昭和19年4月に北京で中国共産党員に暗殺されている。


 もうすぐ正午を迎えようというスラバヤの指令部から南国の海が見える。

  天井からぶら下がる扇風機がゆっくりと回っている

 「インドネシアの夜明け、か」

 

 ◇◇◇


 昭和14年8月初め頃 長岡駅


 田中菊松大佐は、長岡駅を降り立った。

 スーツ姿でいつものハンチング帽を被っている。

 胸には山本五十六次官から預かったコルトガバメント


 そこに例の瞽女ごぜの3人が迎えに来ていた。

 本間花音ほんまかのん石崎いしざきタツ、宝剣乃亜ほうけんのあだ。


 「菊ちゃ~ん」

 「菊ちゃん!?あ、宝剣か!オレをそんな名前で呼ぶな!」


 「菊ちゃん、遅いぃ~」

 「バカタレ!仕事だ、それになんだ、その喋り方は!」


 「ねえ、東京のお土産ないの?東京バナナとか」※そんなものこの時代ありません


 「はあ?土産?ほら汽車で買った花林糖カリントウが一袋あるから、これを君にやる!」

 

 「あ、『ねんぼ菓子』だ、やったー」

 「その『ネンボ』※というのは汚いからやめろ……」


 ※『固めのウンチ』の意味の新潟弁である。「粘棒」とのこと

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