第24話 大陸

 新潟港を出港して4日目、昭和14年4月8日になった。

 長野出身の兵が、カノープス※が高い位置に見えると言った。

 九州より南に来ているのだろうか。


 ※長野県や新潟県では緯度や山などからこの星を見ることは出来ない。

  東京は水平線上にわずかに見える

  


 幸い、この丁抹デンマーク丸には酒保(売店のこと)があり、飴やキャラメルなども売っている。兵隊は食べたり本を読んだり、歌ったりしている。


 今日から対空・対岸監視隊が設けら、初の訓練を甲板かんぱんに出て行う。

 船の食事では、ライスカレーが出されることもある。(陸軍はカレーライスを一般にライスカレーと呼ぶ)。


 星座を知るものは、上海シャンハイに向かっているのではないかというが、まだ誰も行先を知らない。

 その日は20時点呼して就寝した。


 4月9日、朝、甲板に出てみると海水が淡青色になっている。南国の色である。

 9時頃には泥水の色のように渋色に変わった。

 午後には、日章旗をつけた船が通り過ぎ、そして船がだんだん多くなる。


 14時頃、おかが見えた。立木も見える。

 日章旗を付けた船がたくさんいる。

 赤十字をつけた船、客船、貨物船

 我々の船を見て、萬歳を叫んですれ違う。


 正午には実弾が分配されていた。小銃は120発、軽機関銃は1200発、擲弾筒てきだんとうは14発。


 戦場はすぐ目の前であるという実感。いままで飲んで歌っていたのと打って変わって緊張感に包まれた。


 甲板には射撃部隊が配置された。対空、対岸からの攻撃を防ぐためである。


 そして呉淞ごしょう沖に停船して停泊した。(現在の上海市宝山区しゃんはいしほうざんく


 ここは昭和12年の上海事変(第二次)で海軍陸戦隊と激しい戦闘が行われ、8月には陸軍を派遣。中華民国との全面戦争に突入する原因となった地である。


 ここで新潟出航後に初めて入浴が許された。

 浮袋が分配され、その仕様装着訓練が行われる。敵機の攻撃により撃沈、揚子江ようすこう長江ちょうこう下流部を揚子江と呼ぶ)に投げ出された場合の救命具であり、使用装着指導が行われた。


 翌日、

 呉淞を出航。船は揚子江を遡上していった。

 大河であるが、遠くに見えるおかには中国の家屋が見える。

 4月の春の頃、柳の木は芽を吹き、桃の花は咲いている。


 今まで単調な海しか見ていなかった兵士は、

 甲板に上がって変化に富む、揚子江沿岸の大陸の姿を見ていた。


 揚子江を行きかう船は日本の船しかない。


 すれ違う船から、日本語で「兵隊さーん」「ばんざーい」の声がはっきりと聞こえる。


 丘を走る車は左側通行で、我が国本土と同じ。


 この上海から一帯は、我が国、大日本帝国の完全な支配下にあった。


 ※旧中国上海は日本に占領されてから1945年12月末まで左側通行であった。

 1946年1月に右側通行に切替えが行われた。

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