溶けていく不穏 終
――これで良かったのだろうかと何度も思考を繰り返していた。
最後の炎も落ち切り、今は冷凍庫のように枯れた空気と霜が地面に出来ていた。
まさか、キンセンカが咲いていたなんて思いもよらなかった。ずっと前に踏みつぶしたというのに。あの原稿用紙とともに捨てたはずなのに。
冬の青空は妙に色あせていた。この日、とは言っても十二月下旬はいつもと変わらず、何かあるとすれば、小説大賞の結果の発表が十八時にあるぐらいだ。彼女は不安を隠せずにいて、まだ昼頃にもなっていないというのに居間で読んでいる小説も内容が頭に入っているようには見えなかった。しきりに足同士を擦り、ちらちらと時間を確認していた。夢上さんも小説の事は知らないはずなのに、そんな彼女を気遣って、余計に茶化したり、料理に誘ったりなど気を紛らわせてあげているようだ。
そんな光景をみているうちに時間も流れていき、昼ご飯を食べ終えて、しばらくして彼女と夢上さんはクッキーを焼いていたようで、食卓に出してくれた。香ばしい匂いが鼻をつっつき、唾液が口内に溢れてくる。とりあえず、一つ。――バターの風味が口全体を支配し、砂糖で更に風味が際立っている。夢上さんの菓子は他とは比べ物にならないくらい、美味しい。
ずっとクッキーを頬張っていると、美晴はおもむろに立ち上がり庭に出て行った。その姿を目で追うと彼女は上呂を持って、花壇に水をやっていた。
「キンセンカを育てていたのは美晴さんだったんですか」
尋ねると、清子さんが答えた。
「美晴ちゃん、花が好きみたいで、来たときからずっと育ててくれているの」
清子さんの姿は責任から目を背けているように感じた。それを察してか、清子さん以外は誰も声を上げなかった。ネガティブな感情がすぐ顔に出るのは悪い癖だ。ここに来て、人間関係に慣れてきた。しかし、どうもあの花を見るたびに、捨てたはずの原稿用紙が、糞尿の臭いが、そして冷えたが、眩暈を起こす
自分の部屋に戻る。あのときと同じように冷えた空間は、体を侵食するように、じわりと体温を下げていく。
今日はいつもと違って眠気はなく、布団に包まっても、脳が圧迫される感覚は起きなかった。これで、いいのだろうか。この空間を壊すなんてことをしてもいいのだろうか。――やはり慣れすぎた。
独りでもよかった。でも、一度関わりを持ってしまったら、その場所に慣れてしまったら、心地良いと感じてしまうものだ。期待して、希望をもって、違和感から目を背けて、そして今こうなっている。受け入れようとはしたが、結論は変わらなかった。
思考を巡らしていると廊下からノックが聞こえてきた。はい、と返事をすると夢上さんが、夕食だと教えてくれた。時計を見ると時間がすでに五時半を回っており、相変わらず自分は時間の流れに疎い。
廊下に出ると、そういえばと思い、夢上さんに美晴の事を聞くと、部屋から出て来ていないらしかった。
「では、僕が呼びに行ってきます」
「お、進んでんねー。何?やっぱり付き合ってんのか?」
いつもどおり、夢上さんは茶化してくる。それを聞かないふりをして、階段の一段目に足を降ろしたところで、壱露、と呼び止められた。
振り向けない。今ここで振り向いたら、揺らいでしまうから。
「何かあったか?」
「別に何も」
素っ気なく返して、階段を降りる。夢上さんは妙に観察力がある。だから嫌いだ。
美晴の部屋の前まで来て、ノックをすると、彼女が部屋から、壱露君?と顔を覗かせた。
「夕食です」
一言告げて居間に向かうと、彼女もついてきた。彼女は僕の隣につき、珍しく話しかけてきた。
「今日、だよね」
「まあ、大丈夫だよ」
「そうかな。少し不安」
きっと彼女が聞きたいのは、そういうことではないだろう。だからこれ以上こんな会話をしても価値がない。だから話を逸らした。
「美晴は、キンセンカが好きなの?」
「え?うん……好きだよ。日崎壱楼さんは、やっぱりすごいよ」
「そっちじゃなくて、花の方」
訂正すると、彼女は気恥ずかしそうに俯いた。
「もとからじゃなくて、日崎さんの小説読んでから、どんな気持ちなんだろうって思って、実際に育ててみたの」
そう話しているうちに、居間についた。食卓には夕食がずらりと並んでいた。みんなが手を合わせる。その小気味のいいそれぞれの声を聞いて箸を持った。
今はもう、食事に対して吐き気を覚えない。つくづく変わったなと思った。以前なら、胃に入れるものは甘い物か非常食ぐらいで、手づくりの食事なんて口に入れただけで、糞尿が幻臭となって襲ってくるのだ。だがあの日、青空ハウスに来たときのご飯は不思議と味がした。
夕食を食べ終え、風呂に入った。
時刻は十八時半を過ぎていた。風呂に入る前に、美晴に事前に声をかけられていたので、濡れた髪を乾かし、美晴の部屋をノックした。彼女も風呂から出ているはずだが、全く出てこない。かと思ったら、部屋の中から紙の音や何かを積み上げる音がドタドタと鳴った。しばらくして、少し息の切れた美晴が出てきた。
「ごめん。待たせたよね。少し散らかっているけど……」
「今さら、散らばっている本とか気にしないよ」
何度も入ったことがあるのに、なんて答えればいいのか。
「え?部屋に入れたこと、あったけ?」
――。
「紙の匂いがすごいするから、そうなんだろうなって」
「あ、そういうこと、嫌じゃなければ入って」
美晴に促され入ると、本棚は部屋を囲っており、あぶれた本は床に大量に積まれていた。酷いところだと、僕の胸辺りまで積まれている所もある。
そして、もう一つ、目に入ったものがあった。古い原稿用紙だ。縄で縛られた跡があり、随分と色あせている。遠くからでも見える、その特徴のない純粋無垢な文字が、それが何かを理解した。――なんでこれが……。
苦い顔をしていたのだろう。美晴は焦ったように、口早に言い訳を並べた。
「ご、ごめんね。この部屋は前に住んでいた人がそのまま残したところなの。それで、新しい本も買ったから、結構狭くなっちゃって……」
一瞬、視界が白い砂嵐で埋まり、目元を抑える。――なんだ。目の奥が震えて。
「そんなに嫌だった?ごめんね、片付けなきゃだよね」
何を勘違いしているのか分からないが、何とか自分を込み上げてくる何かを抑える。
「別に僕の部屋じゃないし、謝ることはないよ。でも」――あの頃と変わらない。
彼女は恥ずかしそうに俯くが、今日は別に部屋を見に来たわけじゃない。
「とりあえず、確認しましょう」
そう促すと、美晴はパソコンを開き、葵分社のホームページを開いた。ログインして、講評ページの前まで来ると、講評結果が簡単に書かれていた。
美晴は僕を不安そうに一瞥したが、とりあえず頷いて促した。美晴はゆっくりとスクロールした。
その結果に美晴は唖然としていた。信じられなかったのだろう。――銀賞。
そうホームページに書かれていた。もちろん紛れもない事実だ。僕が発破をかけたわけでも、なにかのミスということでもない。銀賞と書かれている。
そのしたには採点基準と講評が書かれていた。美晴はどう感情を表せばいいのかわからず、あわあわとこちらを見つめていた。
「うん。まあ、いった通りになったね」
その表情になんて言えばいいかわからず、端的に言うと、突然「やった!」と抱きついてきた。骨が筋肉で覆われていないせいで、そのまま、床に倒れ込む。彼女が上に伸し掛かり――重い……。
しばらくして、彼女は上半身を起こした。
「ありがとう。壱露君おかげだよ」
「僕は、校閲をしただけだよ」
僕も体を起こし、美晴と対面する。その満面に現れた笑顔に、頬が熱くなる。
僕が美晴と違って、あまり反応が薄いのは、事前に結果を翠さんから聞いていたからだ。いけるよとは何度も言っていたのだが、やはりどこか無責任過ぎて、不安だった。だから、嬉しさよりも安堵が強かった。でも、そんなに喜べない理由は他にもある。
そして、美晴は言うのだ。
感情が溢れて悶えていた美晴だが、しばらくして大きく深呼吸すると、僕に視線を向けた。
「壱露君」
僕の名前を呼ぶ声はどこか覚悟を決めた様子で、でも希望に満ち溢れていた。
「聞きたいことがあるの」
美晴はそうして僕に問うのだ。
「壱露君は日崎壱楼なの?」
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