進む不穏 九
あの時のことをもう一度彼にお願いしようと、私は彼の部屋の前まで来ていた。花火大会が終わった夏休み中旬お昼を過ぎた頃に私は扉をノックした。しばらくしてから、はいぃ、と低い声が扉を開いた。でももう驚くことはない、かれこれご飯の時に何度もノックをして、何度もその声を聞いたのだから。
顔を上げた彼は眠そうに目を細め、頰を搔く。そんな呑気な彼とは違い私は隠していた原稿を彼に差し出した。
「前に断られたけど、やっぱり読んで欲しいの」
私が大きく頭を下げると、彼は困ったように目元を擦って「前にも言いましたけど、僕は読むつもりは」「逃げたくないから」彼の言葉を遮って、出てきた言葉はそれだった。
「壱露君、前に私は逃げてるって言ってたよね。うん、自分もそう思う。お母さんにあなたは文を書く才能がないって否定され続けて、誰かの意見を聞くのが怖かったの。大賞の講評だって読み流しただけ。だから、だからその一歩前を、踏み出すために、あなたの意見が欲しくて」「悪いけど」
彼の冷たい言葉が私の胸を刺した。結局読まないと言われてしまうのか。結局読んでも意味がない価値がないと言われてしまうのだろうか。私の小説は読まなくてもつまらないと言われてしまうのだろうーー「悪いけど、感想は言うつもりはない」それはどういう「添削ぐらいならするから」そう言って彼は右手を差し伸ばす。
私が顔を上げると同時に四百字詰めの三五五枚の原稿用紙が少し軽くなった。彼をそれを欠けている左腕でさらに盛り上げ私の腕は重力を失った。
そして、彼は気まずそうに苦い表情を浮かべて、あー、と唸る。
「読んだら、言うから。それと君が逃げているって意味で言ったわけじゃないことは撤回させて、あれは……まあ少し酔っていたんだよ。熱に浮かされていた。だから申し訳ない」
彼が謝罪をして、私はどう返せばいいのか分からなくなっていた。ただぼーっと彼を見つめるだけで、ずっと固まって。じゃあ、と彼が足早に扉を閉めようとしたとき私はドア枠に手をかけて、そのまま挟んでしまった。
「いっつ!」「ごめん!」
私が勢いよく手を引っ込めると、同時に大きな紙吹雪が舞った。すぐに手を引っめたはずなのに彼の手が私に触れている。その表情を私はまた見た。子どもが怪我したときに見せる母の苦痛な表情。その慈愛に満ちた顔に私は痛みも忘れて、見惚れてしまった。目が合う。私は自分の手を背中に隠して尻もちついた。
「大丈夫、大丈夫。全然痛くないから」
そう言うと同時にヒリヒリと指先に熱が込み上げていく。だけど彼は私の言葉を信じたのか、にへらと苦笑って、そっか、と安堵を見せた。
「それで何だったの?」
そう言われてどうしてあの時手を出したのかはわからない。なんでもないと口に出そうとしたけど、自分の一歩を踏み出すという言葉を思い出して、私はいま出てきたことお願いした。
「君の小説が読みたい」
あの日崎壱露というネームの小説。もし彼が日崎壱楼でなくとも、壱露君の小説を読んでみたかった。私がお願いすると、彼は突然吹き出し「君は傲慢だな」と指摘されてしまった。それについ恥ずかしくなる。
彼は遠くを見つめてしばらく考える素振りを見せてから「まあ、君の小説を読んでおいて、こっちは出さないのも不公平か」と変な独り言を呟いた。読んでほしいとお願いしたのも彼の小説を読みたいと言ったのも私だというのに。
「わかったよ。短編だったら一つ書いてみよう」
そう頷いて、彼は私の原稿用紙を拾う慌てて私もページを間違わないように拾い上げる。少し見えた彼の首元に赤い筋の入った跡が残っていたことを思い見返す。まだ残っているその痕は影を落としていた。
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