進む不穏 六

 花火大会当日、お店での着付けがかかりそうだったので、壱露君とは現地集合になった。着付けを終え、駅に向かう。駅周辺は家族やカップルなど、多くの雑踏の中で揉まれていた。着物が崩れないか心配だったが、急いで改札口を抜け、三番線のホームの階段を降りるところで、右腕のないポニーテールの少女が座り込んでいた。その少女は鼻をぐすぐす、と鳴らしながら、涙を堪えていた。――壱露君……?

 その子を避け通り過ぎる人々。雑踏というには規則性のある足取りで三番線のホームを降りていく。声を掛けている人もいるが、少女は俯いているだけで何も答えない。そのためか、その人々も、いつしか自分の目的地へと向かっていった。

 私はその少女に眼を話せずにいると、持っていた巾着からかすかな電子音が私の耳に届いた。そこで我に返り、そこから携帯電話を取り出す。――壱露君?

 電話に出ると、その向こうで大勢の人の声が響いていた。

「もしもし、どうかしたの?」

 私が聞くと、壱露君はどこか言葉を探すように、あー、と唸り、ゆっくりと口を開いた。

「突然ごめん。実は待ち合わせに大幅に遅れそうで、もしかしたら来られないかも」

「え、なんで?何かあったの?」

 そう聞くと、彼はまた唸り声を上げ、そこから黙ってしまった。突然、理由も言わずに来られないかもと言われ、私の脳はどこか遠くに置き去られたように思考が停止した。

「えっと……なんで黙っているの?理由ぐらいは教えて欲しいんだけど……」

 流石に、感情的になり、語気が強くなる。壱露君は「とりあえず、ごめん」と口早に言って電話を切っていった。

 切られた電話をじっと見つめる。次第に彼に対して胸が焼けるような怒りを覚えた。確かに無理やり連れてきたのかもしれないが、行くと言ってから突然やっぱり無理と言われるのは理不尽に感じた。

 裏切られた気持ちになり、溜め息を吐く。改札には入ってしまったので、どうしようかと立ち尽くしていると、背後から駆けていく足音が聞こえて、私を追い越す。

 ポニーテールで、左腕のない、どこか体調の悪そうな白い肌。電話越しから聞こえてきていた人々の群れは、案外私の近くだった。壱露君はどこか焦ったように、三番線の階段近くまで走っていった。彼は先ほどうずくまっていた少女に声を掛ける。少女は顔を上げる。彼は彼女に柔らかく微笑みを向けていた。

 彼は持っていたオレンジジュースを渡し、彼女を立たせた。

 少女はそれをじっと見つめて、涙を拭う。そして、駅の案内所へと一緒に向かっていった。しばらくして、壱露君だけが案内所から出てきた。彼はそっと溜め息を吐くと、ポケットから携帯電話を取り出していた。

 そんな彼に私はどうも納得いかなかった。――なんで、わざわざ……。

 私も溜め息を吐き、携帯と睨めっこしている壱露君に近づいた。

「壱露君」

 私が声を掛けると、彼はばっと驚いたようにこちらを向いた。私が睨むと、硬直していた彼は、目を逸らし苦い表情を浮かべる。

「あー、少し道に迷っちゃって、それで、来られないかもと思って……」

「私の言いたいこと分かる?」

 圧力を込めて問い詰めると、彼は諦めたように俯く。その病人のように白い肌はより影を深く表していた。

 怒りたいけど、どうも怒る気にはなれない。私は呆れ混じりに、彼の手を取った。

「あの子の家族は見つかったの?」

 予想外の言葉だったのか、彼は目を見開いた。

「すぐに見つかったけど」

「そっか、別に嘘つく必要なんてなかったのに。言ってくれればよかったのに」

「ごめん。誤解を招くようなことをいって」

 ポニーテールのおかげで彼の顔のパーツがはっきりと見えた。彼はどこか申し訳なさそうに、目を細めて俯いていた。――そんな、顔されると……。

「いいから、行こ?」

 丁度、電車の到着のチャイムが鳴る。私は壱露君の腕を引っ張り三番線のホームへと駆けこんだ。

 花火大会の会場は隣の駅が最寄りだ。実際に歩いたほうが安上りだったのだが、壱露君が疲れるからと電車で行くことになった。着くと、人だかりはより一層と膨れ上がっており、体の熱が飽和して下着に汗がしみ込んでいる。

 壱露君の姿を確認すると、白い肌がうっすらと青黒く浮き出て、苦しそうに浅く呼吸していた。

「壱露君、大丈夫?」

 心配の声を掛けるが、彼は余裕がないためか返事がない。

 人ごみを何とか掻き分け、道外れのベンチに座った。私が飲み物を買おうと立ち上がると、彼は息切れしながら、すいませんと呟いた。

「私、飲み物買ってくるね」

 しばらく、自販機を探したが、何故だか見つからない。仕方なく、人ごみに揉まれながらも、屋台でラムネを二つ買った。

 壱露君の元に戻ると、十分呼吸が整ったようで、辺りを見回していた。その姿はどこか迷子で不安になっている少女のようで。

「ごめん遅くなって」

 一言謝り、彼にラムネを渡す。

 彼は軽く会釈をすると、ビー玉を専用の栓抜きで落とそうと、ラムネ瓶を膝に乗っけていた。ゆらゆらと不安定に揺れた瓶に苦戦している彼を見ていられず、先ほど開けた自分のラムネを壱露君に渡す。

「本当に申し訳ない」

 壱露君はどこか戸惑い気味に私のラムネと交換した。そして、ビー玉を不器用に浮かせながら、口にする。

 その様子を確認すると、私もベンチに座って、ビー玉を落とす。炭酸が口の中で蒸発し、軽い痛みとなって喉を通る。夕暮れはもう落ちかけて、センチメンタルを残そうと、ラムネ瓶をオレンジに彩っていた。

 その間、私は彼の何かを探るように、視線を向けていた。その誰とも似つかない雰囲気は片腕がないからだろうか。いつもはどこか達観したような冷静な感じだというのに、たまに今のようにどこかあどけなく、子供っぽくて――愛らしい。

 ラムネを飲み終えると、壱露君は私に手を差し伸べた。その意図が分からず、首を傾げると、壱露君は、瓶捨てるんで、と目を逸らしながら言った。

「ありがとう」

彼にラムネ瓶を渡すと、専用のゴミ箱に入れに行った。戻ってくると、行きましょう、と彼から声を掛けられた。

「もう大丈夫なの?」

「とりあえず、落ち着いたから」

 やはり、不器用なだけなのだろうか。そう思いながら先導していく彼の後をついていく。やはり屋台の通りは人が多かったが、先ほどよりはだいぶ落ち着いていた。きょろきょろと屋台を見回しても、どこか心が落ち着かず、壱露君の背中を見てしまう。

 歩いているうちに、壱露君が不安そうにこちらに振り向いてきた。その振り向いた顔は先ほどの青さはなく、ほっと胸を撫でおろした。

「あの、あまりこういうところ行ったことないから、どうすればいいか分からないけど」

「あ、そうなんだ。ごめん。実は私もどうすればいいか分からなくて」

 二人で固まってしまい、気まずい。

「あ、わたしわたあめ食べたいかも……」

 なんとか、言葉を振り出す。壱露君はどこか納得したように、なるほど、と口を開ける。

「では買いましょう」

 わたあめのお店を見つけると、壱露君は速足で向かい、私を買ってきてくれた。ありがとう、と受け取るが――一つしかない。

「あの……壱露君はいらないの?」

「僕はただの付き添いなので……別に大丈夫です」

 ざわり、と木々が揺れた。ちくちくと刺されたように心の奥が痒い。その痒さに我慢できず、壱露君の顔にわたあめを押し付けていった。彼はもごっと、体をのけぞらせる。そして何とかそれから逃れると、困惑した顔でこちらを見ていた。

「楽しくない?電話で行けないって言ったのもやっぱり行きたくなかったから?」

 自分の声が低くなって、震えているのを感じる。その様子を察したのか壱露君は、いやぁ、と髪をいじっていた。

「なんか、遠慮しているのかなって、無理やり誘っていたけど、行きたくなかった?」

 体のどこかから寒気がする。汗がにじみ、体をさらに冷やしていく。そして、彼の返答を待っているのも耐えられなくなり、彼に背を向けてしまった。

 周りの人混みが、自然と私たちを避けている。

「さっきも言ったように、こういうのよく分からないんだ」

 彼は言って、また詰まる。――そんなんじゃ、納得いかない。

「僕、友達とかいないですし、家族もいないのでどうすればいいかわからない。お祭りとかずいぶん行ってないし、いやとかじゃなくて……」

 分かっている。でも納得いかない。――じゃあ、なんで……。

「千代子ちゃんには素を出すのに、私にはよそよそしい」

 つい本音が漏れてしまって、口元を隠す。彼の方を振り向くと、どこか苦々しい表情をしていた。――あ、駄目だ。

 そこで自身の身勝手ぶりに気づき、彼の顔を見るのが出来なくなった。

 雑踏を聞いて、逃げていると、彼の息を吸う音が異様にはっきり聞こえた。

「そういうのがいいの?」

 声は確かに壱露君だった。思考が追い付かず、彼のを見るまで、数秒かかった。

 彼は顔を逸らしていた。童顔だというのに、その表情は、彼を男だと実感するには遅くなかった。彼の言葉を反芻するうちに、気づけば自分の頬が熱くなっていた。

「べ、別にそういうわけじゃないけど、嫌では、ないかな……」

 そして、沈黙が喧騒に埋まる。

「行こっか……」

 そう促したのも何回目か覚えていない。そうして、壱露君と顔を見合わせる。その人工的な光もどこか暖かく感じる。気恥ずかしさで、持っていたわたあめを食べながら、顔を隠す。そして、彼に背を向けて足をゆっくりと進める。雑踏の中というのに、壱露君と自分の足音が異様に脳に響いていた。

 そうして、壱露君と屋台を回っているうちに、気づけばスピーカーから花火の打ち上げ開始の三十分前の知らせが届いた。彼の方を向いて、表情でどうしようかと尋ねる。

「聡霧さんに貰ったチケットあったよね」

「う、うん。大丈夫」

 人通りをかき分けて屋台の通りから離れたところで、黒いロングの髪をさらさらと揺らす千代子ちゃんが見えた。彼女は黒い無地に白い花を載せた着物を着ていた。

 じっと見ていると、彼女はこちらに気が付き、手を振りながら走ってきた。

「美晴さん、壱露さん!」

 その元気のいい笑顔が、影で埋まった世界を照らしているように感じた。

「千代子ちゃん。こんばんは。こんなところで出会えるなんて」

「私もです。似合いますね、浴衣」

「ありがとう。千代子ちゃんも凄い綺麗だね……」

 その整った血色のいい顔と黒い着物が彼女の清楚さを際立たせている。壱露君もどこか思うところがあるのか、千代子ちゃんの姿をじっと見つめていた。

「千代子、それ……」

「はい!似合いますか?」

 千代子ちゃんは自信に満ちた表情で腕を広げる。しかし、壱露君は呆れているようだった。

「まさか、買ったの?」

「買いましたけど」

 彼女は不思議そうに首を傾げる。

 しばらく、壱露君は彼女の着物を睨んでいたが、諭すように声を和らげた。

「無駄遣いしないようにね」

 それを聞くと、彼女はぎくっと肩を跳ねさせ、視線を逸らす。

「気を付けます」

 なんの事か分からず首を傾げると、千代子ちゃんは誤魔化すように苦笑いを返した。

「今日は誰かと来ているの?」

「あー、はい。実はお父さんと」

「そっかお父さん。家族仲いいんだね」

 千代子ちゃんは目をつむり納得が行かないのかうーんと唸り声を上げて、苦笑いを浮かべた。

「まあ、そうなんですかね……」

 千代子ちゃんはまた愛想笑いで誤魔化すと、お父さんが待っているので、と去ってしまった。

 壱露君と顔を見合わせ、目的地に歩き出す。無言の時間がどうも気まずく、先ほど、気になったことを聞いた。

「そういえば、千代子ちゃんってお金そんな使っている人には見えないけど」

「千代子、着物着ていたから」

「え?」

 納得のいく答えが返ってこず、思わず聞き返す。彼は、あー、と間を繋げながら、頬を搔いていた。先ほど後ろにいた壱露君が私の隣に来ていた。その距離の近さと背筋を伸ばして歩いている姿から、私よりも背が高いことに今さら気づいた。

「前に行ったあのお店。美晴が着ている着物と同じ場所に置いてあったから、多分美晴が着ている着物に近い値段だと思って」

 そこまで言われて、やっと察しがついた。

「千代子ちゃん、そんな高い買い物したんだ」

「まあ、自分のお金だから僕が言うのもおかしいけどね」

「壱露君は、優しいんだね。あの迷子の子もそうだけど」

「いや、あれは……まあ、放っておけなかったんで」

 何か言いかけたが、彼は言葉を変えた。何とか口調を直している彼を見ると、どこか微笑ましい。口角が自然に上がっていたのか、壱露君が訝しそうにこちらを見ていた。

「何?」

「ううん、何でもない」

 そう言うと彼は口を強く締めた。

 河原まで歩いて、近くにいる係り員にチケットを見せて、指定の有料席まで行った。祭り会場から五分だろうか、席に着いて、ふと壱露君を見ると、まだ花火は内上がっていないというのに目を大きく光らせて空を見上げている。そんな彼に見惚れているとオレンジの光が瞬き、パン、と音が鳴った。

 その方向を見ると、花火が打ち上げられていた。色とりどりの花火が私たちを照らしており、その柔らかく咲く花火の音が私の心臓を打ち、段々と鼓動が早くなる。

 ふと、壱露君の方を見ると、彼は目を大きく開きじっと夢中になっていた。あどけなく感じ、鼓動が更に波打つ。

 綺麗だね、と言葉も出ずに終始無言で花火を見る。それが、落ち着かないというのに、どこか心地よく感じる。しばらくして、一つの花が散って、音が静まり返る。光は住宅だけになり、ふっと軽く息を吐く。――パアン……・。

 終わったと思ったところで、また花が咲く。そして無数の花が藍色の空にバチバチと鳴って、私たちを照らした。その音が、心臓を更に打ち、何を思ったのか壱露君の方を向いた。

「好きだよ」

 聞こえていないと思った。聞こえていなくても、いや聞こえていないからこそ、呟いてしまった。

 彼も私の方を見ていた。頬が熱くなるのを感じる。咄嗟に彼から目を逸らしてしまう。こっそりと横目に彼を見ると彼は柔らかく微笑んで、花火を見ていた。

「僕もこの景色は好きです」

 ――だよね、うん……。

 むず痒い感覚に襲われ、気づけば花は散り切っていた。しばらく感傷に浸って、お互い図るように顔を見合わせた。

「帰ろっか……」

 私から切り出し、立ち上がったところで、足の付け根にしびれるような痛みを感じた。見ると、かかとに擦り傷が出来ていた。壱露君も私の怪我に気づいたのか、ポケットからスプレータイプの消毒剤と絆創膏を取り出した。彼はしゃがみ、私に下駄を脱ぐように促す。もう一度ベンチに座り、下駄を脱ぐ。彼は傷口にスプレーを吹きかけ、軽くティッシュでふき取り、絆創膏を貼ってくれた。その痛みの柔らかさに彼の優しさを感じる。

「歩けそう?」

 立ち上がり、傷み具合を確認する。

「うん大丈夫。ありがとう……」

 着物を着ているせいか、私の体の熱は冷めずにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る