進む不穏二

 壱露君が熱を出した。翌々日のことだった。あれから彼とはうまく話せていない。わたしだけ彼を一瞥してすぐに目を逸らすの繰り返し、目があったこともなかった。少しぼーっとしてたり、夜中に体がふらふらしていたのを夢上さんが怪しがって熱を計らせたら、38.9度も上がっていた。彼から聞いたところ、一昨日から調子がおかしかったらしく、もしかしてあの変な含みのある物言いも熱があった世迷言なのかもしれない。とはいえ、やはり心臓に引っかかるものがあった。

 私のことを知っているというのも、自殺部屋のことも、彼の本意を知らなくてはいけないという義務感に苛まれていた。

 青空ハウスにと帰り、荷物の片付けを済ませ、居間に向かうと、いつものように、清子さんがテレビを見ていた。

「清子さん。ただいまです」

「美晴ちゃん。おかえり。お風呂入って来ちゃいな」

 昨日、夜勤まで働いていた夢上さんがいないことが気に掛かったが、自室にいるのだろうと思い、浴室に向かった。

 しばらくして、風呂を入り終えて、居間で本を読んでいると、玄関から「ただいま」と夢上さんの声が聞こえてきた。居間から顔を覗かせると、夢上さんが藤崎君に肩を貸して、階段を登っていく姿が見えた。

 何故、夢上さんと藤崎君が一緒に外にいたのか、不思議と意外で清子さんに聞くと、呆れたように笑みを浮かべてことの経緯を話し始めた。

「あの、壱露君、どうしたんですか?」

「あー、壱露君、熱出しちゃったみたいでね」

「え、大丈夫なんですか?」

 思えば、朝はいつもよりも疲労が見えた。

「多分ね。夢上ちゃんが病院連れて行ってくれたから」

 二人で話しているうちに、夢上さんが「ただいま」と一言添え、居間に入ってきた。

「夢上ちゃんお帰り。ありがとうね。どうだった?」

「風邪だって、寝不足のせいみたい。お、晴ちゃんもお帰り」

 夢上さんは私に軽く挨拶をすると、疲れたのか溜め息を深く吐く。

「そうなんですか」

 興味を持つと、またいじられると思い、他人事のように本を開く。しかし、夢上さんは私が返答するとは思ってなかったようで、不思議そうに首を傾げた。

「ん?」

 気にしていることがバレたかと思い、警戒するように、じとっと夢上さんを睨む。

「なんですか?」

「え?いや、なんでもないよ。あ、そうだ。後で壱露の様子を見に行ってくれるか?ついでに飲み物とか持って行って欲しいんだけど」

 夢上さんはどこか含みのある笑顔になり、私はさらに眉を顰める。

「なんで、私なんですか?」

「別にいいじゃん。嫌ならいいんだけど」

 突き放しながら聞くと、夢上さんはどこか気まずげに目を逸らし、苦笑いを見せる。その様子に悪意を感じず、というよりは疲労を感じられ頷くことにした。

「まあいいですけど……」

「じゃあ、よろしく」

 夕食を食べ終え、音を立てないように壱露君の部屋に入る。やはり事故部屋に入るのは戸惑いがあるが寝息が聞こえてくると、どこか安心感を覚えた。

「壱露君?起きてる?」

 部屋の机には卓上ライトが付いていた。藤崎君は布団に潜り、静かに寝ていた。

 藤崎君のそばで腰をおろし、布団を軽くめくり、彼の顔を覗く。彼の呼吸は浅く、苦しそうに表情を歪めている。――大丈夫そうに見えないけど。

「大丈夫かな」

 壱露の額に手を当てる。触れた瞬間は冷えているように感じたが、時間が経たぬうちに、手に熱さが伝わってきた。汗でびしょ濡れの顔を見て、私は持ってきていた濡れタオルで軽く彼の肌を拭いた。その途中で、彼は突然私の手を掴んだ。彼の行動に肩をびくっと上げ、硬直する。ゆっくりと開いた瞼が、誰を映しているか分からない程虚ろだった。熱に侵され脳が働いていないだけなのか、それとも――私は何を考えているんだか。

 彼はゆっくりと目を開き、私を捉える。

「ごめん……起こしちゃったよね」

 藤崎君に声をかけるが、ぼーっとただこちらを見ている。その姿が大人びていて、どこか幼かった。その彼の奥にある何かが分かった気がした。縋りたくても縋れなくて、自力で歩かなくてはいけない。その理不尽が、彼をこんな風にしたのだろう。たとえ、周りが手を差し伸べても、その知らない手に触れるのが怖くて、彼は誰にも助けを求めず、ここまで来たのだろう。

「君か」

 あの時と同じ冷たい目だった。だけどやはり弱っているのか掴んだ腕をすぐに離して逃げるように私から体ごと背ける。

「悪かったね一昨日は」

「いや、熱あったんでしょ?」

 私が誤魔化すように確かめると、まあ、多分と曖昧な言葉だった。

「ごめんね。もう行くよ」と膝を伸ばしたけど彼からの返答はない。その代わりすーっすーっと途切れるような寝息とともに「母さん」という寝言が聞こえてきた。

 私に親がない彼の何がわかるのだろうか。彼は前に全部知ってる言っていた。知っているのならそれなりの検討はついていた。彼が私のお母さんと面識があるのだ。でも私はどうだろう。彼の辛さの何を知って、今までの優しさの何を知っているのだろうか。たとえ、あれが嘘だとして、彼が私に好意的に接してくれていたことには変わらないじゃないか。

 隣から差し込んでいたオレンジ色の光に視線を向けた。そこには、オレンジついている、卓上ライトと、パソコンがブルーライトカットに施されて光っていた。その画面には大量の文字が打ち込まれていた。その文字を辿っていく。――小説?

 その画面を一番上までスクロールする。

「え……」

 そこには『無題112 日崎壱露』と書かれていた。――日崎……。

 その小説を読み進めていると、後ろから、ギィィィィと、赤ん坊の様な産声が聞こえ、彼女は反射的にパソコンの画面を閉じる。振り返ると、そこには夢上さんが廊下から顔を覗かせていた。

「晴ちゃん。大丈夫?」

「夢上さん大丈夫です。私はそろそろ行くので」

 そう言って、そそくさと夢上の横を通り過ぎ、部屋を出た。

「晴ちゃん」

 夢上さんに呼び止められ、目を細くして警戒するように睨む。しかし、彼女は至って無表情で、いつもの様な何かを企んでいる笑みはない。

「何かあった?」

 しばらく何も言えずに、目を逸らしてしまった。どういえばいいか分からず、彼女に背を向け「何でもないです」と一言告げて、部屋に戻った。

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