レプリカ 三

 清子さんが帰ってきたのは夜中だった。私は居間で、月明かりを頼りに本を読んでいた。

「電気も付けずにどうしたの?」

 清子さんは居間に入ってきたときに溜め息を吐いたけれど、私を見たとき肩が張ってそのいつもの笑みを浮かべる。

「いや、どうしたもなにもないですけど」

 今日、彼に失言したことをなんて説明すればいいのだろうか。本を掴む指が強くなる。

「夢上さん帰ってきました。それとお昼ごろに翠さんという方が来ました」

「翠ちゃん?」

 どうやら知り合いらしくだったらしい。もしかして、清子さんが壱露君をいい子だと言っていたのも翠さんから彼のことを聞いていたのだろうか。だけど清子さんはそのちゃん付けを誤魔化すように「翠さんね。なんか言っていた?」「いえ、いや、まあ、その翠さんから、壱露君の親が事故でなくなったということを聞いて」それを、彼の目の前で、夢上さんの前で言ってしまったなんて、言えない。言えないことが卑怯だなって思う。

「そのことを壱露君の前で言っちゃったの?もしかしてその場に夢上ちゃんもいたの?」

 清子さんはやっぱり察しが言い。いや私がわかりやすいだけかもしれない。いつもクラスの人にクールなんだね、とか言われたことがあるけれど、私は笑顔とかのポジティブな表情が薄いだけで、落ち込むときとか怒っているときはわかりやすい、と夢上さんに言われたことがある。小さく首肯する私に、清子さんは溜め息を吐く。

「仕方がないな」と呆れたように言う清子さんは私を抱きしめる。

「美晴ちゃんはいいと思っていったんだから、壱露君も許してくれるよ。あの子いい子だから。夢上さんにも私からなんとか言っておくから」

 そう言って清子さんは「お風呂に入ってくるね」と自室に戻っていった。

 とはいえ、なんて彼に言えばいいのだろう。わざとじゃないとか、いいと思ってとかそんな曖昧な言い訳しか出てこない。

「なんて言えば」「青咲さん?」

 小さな悲鳴が出た。長い髪の亡霊ような姿に心臓が一瞬硬直した。きっとそれだけじゃない。壱露君は夕飯を食べなかった。気まずい空気をなくすために、自室へと戻っていた。もしかして、ご飯を食べに来たのだろうか。

「あ、えっと……」どういえばいいのだろうか。どう謝ればいいのだろうか。なんて今話せばいいのだろうか。怖い。

「別に気にしてない」

 私の心の中を察したのか彼は徐にそう呟いた。彼は頬を掻いて、私から視線を逸らす。

「気にしてないっていうか。あれは僕が悪いから」

 悪いってどう悪いのだろうか。夢上さんに言われた身だしなみとかのことだろうか。夢上さんは確かにああいう身だしなみには厳しいところがある。他人に不快な思いをさせないとか、一緒に歩くとき恥ずかしい思いをさせなとか。そういう人のことを思ってのことだ。でも、どんなに身なりが悪くても、それを公に指摘するのはどうかと思う。その人にもその人の事情があるかもしれないし。それこそ壱露君は両親を亡くしているし、そのせいか鬱を患ってしまっている。だから「壱露君は悪くないよ」「いや悪い」私がフォローしても、壱露君は意固地に自責に駆られている。そう勝手に思っていた。

 私が彼のことを見ると、少し思案した様子を見せて、うん、と頷く。

「僕もそんなことをわざわざいうのはどうかと思ったんだ。けど、冷静に考えてみれば、この長い髪が床に落ちていたり食べ物に入っているのを想像したら、夕飯時は結わえるか何かをするのが常識だと思ったんだ。人に敬意を持て、これは確かに日本人精神である身だしなみなのだけど、やはり合理的なんだ。非常識なのは僕だ、という結論に至ったんだ」

 そう言いながら彼はゴムで髪を結わえる。大きな瞳だった。子どものような大きくて琥珀のように透明な綺麗な眼をしていた。彼はそんな幼い顔から、不器用に笑って「顔を見せるのは苦手なんだ」と声を震わせる。

うん、身なりがどうこうにしろ。

「そっちの方がいいね」と言った。実際、その綺麗で幼い顔と腰まで長いポニーテルは女の子らしささえあった。街中で見間違えてしまうほど。

 彼は私に近づいて、隣に座る。一人分の隙間があった。月明かりが彼の首元を照らした。太く赤い線の痕が薄っすらと見えた。それに気を取られていると「月が綺麗だ」と彼が囁いた。心臓が震えた。だけど彼にはそんな意図はないようで「あの痕ウサギに見えない?」と訊いてきた。

 うん、そうだね、そっか、と彼の話すことを生返事で返す。ずっと彼の首に目を取られていた。その痕はなんだろうか。自然のできものにしては綺麗すぎる。まるで、首を吊ったようなあと。肌の白さが相まって、余計私が見ている彼は亡霊なのではないかと、疑った。

「あれ、壱露君?起きてたんだ」

 清子さんの風呂上がりの声に私は気を取り戻した。

「ええ、まあ」

「仲良くできた?」

「多分」

 と壱露君は私に顔を向ける。その返答を私に求めないで欲しい。まあ、人並みには仲良くできたかな、と私は頷く。どうも、彼は夢上さんとか清子さんには冷たいような気がする。ただ大人の対応をして、そう見えるだけだろうか。

 私だけに表情を広げてくれることに、安堵と嬉しさを覚えた。

「じゃあ、僕は寝るんで」そう立ち上がる壱露君に「私も」と後を追う。階段に上がる前に、彼を引き留めて「おやすみ」と声を掛ける。

「ああ、うん」彼の返答は先ほど私に向けた笑みなんかよりも冷たい無表情だった。足早に階段を上っていく音が聞こえる。その私に対する彼と清子さんや夢上さんに対する対応の差異に違和感を覚えた。気のせいかと、背中を向ける。居間から風が吹いた。

 


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