レプリカ 壱

 壱露君、彼がすぐに部屋から去ってよかった。流れた涙に気づかれたら、よけい心配させてしまうから。よし、声を小さく張り上げる。自室に戻って、自分の小説を書こう。

 そういえば、壱露君が戻る前に「今日、僕の保護者が来る予定なので、すみませんがお願いします」と言っていた。親なら自分で、と言ったのだけどこれから予定があるらしく、外に出て行ってしまった。あれ、自分の親を保護者と言うだろうか。少なくとも私ならお父さんとかお母さんと言ってしまう。他の子たちも、お父さんお母さんじゃなくてもパパママって言っていたのを聴いたことがある。それとも、私とまだ距離を見計らっているのだろうか。そんなことを気にしたって何かがわかるわけでもない。それに壱露君にだって知られたくないこともあるだろう。

 自室に戻って、また積み上がった本に足をかけて転んだ。いった、の後に目を開けると茶色に黄ばんだ原稿用紙が私の目の前に出てきた。これ、日崎壱楼先生の。私がこの世で憧れていた小説家の一人、日崎壱楼先生の生原稿用紙。こんなところにあったんだ。前にどこかにしまったのだと思っていたのだけど、まさか本の下敷きなっていたなんて。憧れていたというのは、もう彼の小説は刊行しておらず、引退してしまったからだ。世界的には全くの人気ではないけれど、私にとっては一番影響を受けた作家と言っても過言ではない。この原稿用紙は元々はこの家の持ち主が持っていたらしく、清子さんには許可を得て、私がもらうことになった。そもそもこの部屋自体も書斎で私の部屋に本が余るほどあるのは元の持ち主が本好きだったからだそう。

 本当は自分の小説を書く予定だったというのに、その原稿用紙を見つけてから、私は夢中になってそれを読んでいた。しばらく時が経つのを忘れて、チャイムが鳴ったとき私はやっと我に返った。

 はい、と出るとそこには二十台前半だろうか、短髪で活発そうな笑顔を向けた女性が段ボールの荷物を持って佇んでいた。

「あ、どうも。壱露さんいますか?」

 女性は名乗りせずに、彼のことを聞いてきた。ていうか――壱露、さん?

「あの、どちら様で」

 私が訝しげに聞くと、彼女は前が見えていなかったのか荷物を身体からずらして私の顔を見た。すると、彼女は少し驚いたように顔を強張らせて私に謝る。

「ああ!すみません。壱露さんか、清子さんかと思っていて。私は壱露さんの保護者の日崎翠です」

「日崎って日崎壱楼のと同じ」私の一人ごとに、一瞬、翠さんの目がぎろりと細まったような気がした。だけど、もう一度見るときには彼女は笑顔を向けて「日崎壱楼って人が何か」となんだか平淡な声で指摘する。つい、すみません、と謝って本題に移った。

「それが壱露君の荷物ですか?」

 そう言いながら翠さんの持っている物に目をやる。重そうな荷物で翠さんの腕がプルプルと震えている。とりあえず中に入れよう。青空ハウスに入れて、居間に促した。

「あの壱露君は用事があるらしく。清子さんも用事があるらしく」

「壱露さんはどうして、いつも」

 事情を説明すると、翠さんは呆れたように溜め息を吐いた。緑茶をキッチンで入れている途中、翠さんは独り言のように彼の愚痴を言っていく。

「いつもご飯は食べないし、不機嫌ですし、もう少し愛想よくてもいいのに」

 そうなのだろうか。まだ昨日今日の関係だけど壱露君は少なくとも私なんかよりも愛想がいいし、優しいような気がする。

「でも、壱露君って小説のことについてはすごい楽しそうに話してましたよ」

 そうフォローを入れると、それでも翠さんは溜め息を吐いた。でもなんだか安心した様子で「そういうところは親に似ているんですよね」と呟いた。

「親、ですか」なんとなく、翠さんが壱露君の保護者だと言ったところで、親ではないことに気づいていた。じゃあ、壱露君の親は「交通事故でなくなりました」そう告白した。どう返せばいいかわからず「それはご冥福をお祈りいたします」としか言えない。多分その時に、壱露君も片腕を失くしたのだろう。

 緑茶を出すと、それを返すように翠さんは「これお土産です」と紙袋を渡してきた。そして、まだ熱い緑茶を勢いよく飲み干すと「では、私はこれから仕事があるので」と席を立った。

 玄関まで見送った時、翠さんは思い出したようにこちらに振り向く。

「彼は口下手で。性格も、いい方ではありませんし、色々面倒を掛けるかもしれませんが、仲良くしてあげてください」

 翠さんは深くお辞儀をして、青空ハウスを後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る