始まりはいつだって最低で 三
頭から血を流していた彼は清子さんに応急処置してもらっていた。
「本当は今日にでも行った方がいいのだけど……」
心配する清子さんとは違い怪我をした当人は「別にひどく痛いわけではないんで、明日で大丈夫です」と平淡な声で言った。包帯を巻きながら清子さんは「で、どうしてこんな怪我しちゃったの?」と彼に訊く。なんで怪我をしたのかと訊くべきなのは、私にではないだろうか。きっと彼が頭を怪我したのは私があの時突き飛ばしてしまったせいだ。彼は私の方をみる。彼の髪が長いせいで上手く見えないけれど、無表情のようでお前のせいだとでも言われているようだった。私はつい抱えている膝をさらに引き寄せ丸まった。この場で言うには勇気が足りなかった。
「さあ、寝ぼけていたせいか、ドアノブにぶつけたっぽくて」
私を庇った。そう直感した。言えばいいのにと思ったけど、自分自身で言えない時点でそんなことを考えるのはお門違いだ。卑怯だって思った。
「あの、彼女大丈夫ですか?驚かせてしまったみたいで」
「ああ、うん。美晴ちゃんね。少し怖がりなの、許してあげて」
加害者に心配をかけられるなんて、私が被害者だったら心配するどころか怒るだろう。駄目だ。ネガティブが止まらない。そっと二の腕の起伏した傷を撫でる。自分のネガティブな感情を誤魔化そうと立ち上がって、キッチン入る。
「夕食の準備手伝います」
「うん。お願い」
ご飯は出来ているみたいで、人数分の皿を取り出してよそう。
「僕も手伝います」と彼の声が聞こえてきた。だけど、清子さんが私のことを知ってか知らずが「ううん。怪我しちゃっているから少し休んでて」と彼を止めた。
先ほどから背中と頭がギシギシと傷む。内臓が錘に吊るされたように張った痛みが不快に覚える。水滴で湿った服が体中に張り付き、べたべたとした歪な感覚が苦しかった。そろそろ来るだろうと思ってはいたけれど、まさか今だとはタイミングが悪い。
キッチンで準備をしている途中、清子さんが私に「大丈夫?」と声をかけてくれた。その大丈夫というのがなんのことかは容易だった。「わかんないです」といつもする返答。清子さんは親戚というのもあっていか自分の事情は話やすい。愚痴も、嫌なことも助けてくれる。でも時々に助けてくれるけど、私からは何もしていないなとも思うことがあった。
夢上さんは料理とかお菓子を清子さんの代わりに作ってくれる。聡霧さんは几帳面で掃除のときは率先してやってくれて、私のやることはそんなにない。織部さんは相談に乗ってくれたり、人の気遣い上手い。男性で力もあるから、清子さんが織部さんに買い物の付き添いに行くこともしばしば。私は何にもしてない。自分の部屋で独り本を読んだり書いたり。何かしようとするけど、特質できることもないから邪魔になる。
ふとキッチンから彼を覗く。ぼーっと今の畳を見て蹲ってる。孤児の子どもが脳に浮かんだ。片腕がなくて、やせ細って、私はそんな脆弱な人に怪我を負わせたのだ。罪悪感が心臓を支配する。鼓動が早くなって、痛くなる。痛いのに、彼の方が痛々しく思えた。彼が何を察知したのか私の方を見て、目が合った。つい顔を逸らして見なかったことにする。やはり怪我させたことを怒っているのだろうか。どうして、何も言わないんだ。なかったことにしようとしている、と思われていないだろうか。不安が増長する。逃げるように「トイレ」に駆け込んだ。吐き気と脳の圧迫感がひどかった。
戻ってくると、すでに準備ができていたみたいで、二人とも私を待っていた。夕飯のメンチカツ、味噌汁、白米からは湯気が出ていて、温かい匂いが部屋に充満していた。換気に窓を開けた。涼しい風が頬を掠った。体調が悪い日は何かが籠っていることが苦手だった。揚げ物の匂いとか、温かい空気とか、身体の熱とか。
清子さんが手を合わせて、私も座って手を合わせる。彼は合わせる左手がないためかただ目を瞑っている。
「いただきます」と清子さんが言って「いただきます」と私は元気がない。彼は何も言わない。ただ目を瞑り続けている。
重い体を動かして、ご飯を口に運ぶ。いつもより白米から甘さを感じられなかった。噛むたびに、さらさらとした舌触りがしてただの粥のようだった。わずかに滲み出る甘さは心臓の痛みを誤魔化すだけ。
居間の雰囲気はどこか暗く、埃は湿って畳に沈殿している。清子さんも私と彼の様子に苦虫を嚙み潰したように唇を閉じて「えーっと」と苦笑う。
心身共に疲れていたけれど、清子さんの表情に黙っているわけにもいかずに、適当に話題を振った。
「そういえば織部さんと聡霧さんって、いつこっちに戻ってくるんですか」
「ああ、聡霧くんは夏休み前に戻ってくるかな。織部さんはまだわからないかな」
織部さんには妻子がいるらしく、とある事情で今は青空ハウスに住んでいる。その事情は分からない。仲が悪いのか、転勤のせいなのか。
「織部さんはいいけど、聡霧さんには帰って欲しくないな。ついでに夢上さんも」
「なんでそんなこと言うのよ」
清子さんに叱られたけど、冗談のつもりだった。そうでもないか。あの二人はいつも私を弄ってくるから正直うざい。でも清子さんもわかっているのか「まあ、でも私は早く賑やかにならないかなって思っているよ。壱露君とも仲良くして欲しいし」「いつゆ?」聞き覚えのない名前を復唱すると、清子さんはそうそうと思い出したように手を打った。いつゆって、今目の前にいる彼の名前か。珍しい名前だなと思った。
彼の方に目をやると、彼は目を瞑ったまま動いてなかった。ご飯にも一切手を突けていないみたいで、不気味さを覚え背中がざわりと震えた。
「二人とも自己紹介しよう。ね、壱露君」清子さんが声をかける。彼は寝ていたのか肩をびくりと上げて「え」と顔を上げた。
「大丈夫?もしかして具合悪い」
「いえ、すみません。眠くて」そう目を擦って、真正面を向く。私と目が合う。いや目を合わせている。
「藤崎壱露です。古い壱にロシアのロと書いて壱露です」
ロシア?あ、露西亜の露か。なんてわかりにくい例え。寝ぼけていてもそんな例えを出してくるのか。次は私かと思い出す。
「
自己紹介が終わって一間の気まずさが到来した。どうしようかと思っていると、くすりと壱露君が喉を鳴らした。笑みを浮かべている。やはり不気味だと思いながらも、苦笑いを浮かべて「どうしたの」と訊くと「青咲美晴って、紫陽花の青さと空の青さを掛けているのかなって勝手に想像して。いい名前って」と囁くように口を開く。寝起きの声がなくなって、肌触りのいいハスキーボイスだった。でもあどけなさなが残っていて、子どもっぽくも聞こえた。
「そう?そっか」
いい名前だろうか。どこにでもいる普通の名前にしか思えない。そう考えると私の名前は適当に付けられたのでは、と思ってしまう。
壱露君の笑みはすぐに消えて、彼は「いただきます」と右手を出す。――長い黙禱だった。故人を追悼するような、とても長い沈黙の後に彼は箸を取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます