始まりはいつだって最低で ニ

――青咲美晴あおさきみはる

学校から帰る頃には、青空はオレンジ色の夕陽で染まっていた。熱で水蒸気が熟れて、さらに汗が噴き出てくる。下着は雨に濡れたように湿っていて、ベタベタと張りつく制服が気持ち悪かった。

「ただいま」

 青空ハウスの玄関で靴を揃えるとき、見おぼえないスニーカーがあった。安っぽく、履きくたびれたその靴を見て、今日新しい入居者が来ることを思い出した。

 背後から足音がして振り向くと、清子さんがいつも通りに迎えてくれた。

「美晴ちゃんお帰り」

「ただいまです」

 その言葉が今週の終わりを感じさせ、どっと背中に心地の良い疲れが重み掛かる。

「そうだ、今日入居者来るって」

 それを待っていたのか清子さんは頬に手を当て、そうそう、と声色高くうなずいた。それが嬉しい時の仕草だった。だけど、新しい入居者が来るときはいつもこんな調子だったろうか。

「よかったら、そろそろ夕飯できるから、挨拶ついでに呼んできてくれる」

 私の表情が中央による。その露骨に嫌な表情を見て、清子さんも笑顔が引きつる。

「ちょっと、そんな顔しないでよ。可愛い顔が台無しだよ。どうせ一緒に暮らしていくんだから」

「そんなこと言いますけど、毎回、私のが挨拶に行ってません?しかも、毎回、変なひとばかりですし」とは言ったもののそれを言ったら入居者全員変な人ってことになるのか。

「それがね。案外まともな子よ。美晴ちゃんと同い年」

 はっきり「嫌です」と答えた。同い年ならなおさら。だというのに、いつも私拒絶の意志を示せば下がる清子さんなのだけど、今日ばかりは「駄目かなぁ」と諦めが悪かった。その嬉しそうな表情から寂しそうな声色が出てくることが心に痛かった。でもやっぱり嫌だ。だって、「二階なんですよね。しかも右側」

 入居者の部屋は事前に知っている。だからこそ行きたくない。あの部屋に入居するなんてまともな訳がない。清子さんは「んーでも本当にいい子なんだけど」「いい人かどうかは私が決めることです」即答で返すと、清子さんも流石に謝って、これ以上は言わなくなった。

 疲れが残っているのに、わざわざ顔合わせに行くなんて面倒くさい。そんなことは夕飯とか、でなければ明日にすればいい。自分の部屋に戻った。少し眠気があったせいで、目が虚ろになって積んでいた本に足をかけ転んだ。椅子の角に頭をぶつけ「いっつ〜!」と額を抑えた

 廊下の遠くから「大丈夫?」と清子さんの声が聞こえてきた。大丈夫です、と伝えると心底安心したようにそっかよかった、と聞こえてきて、その後に「少しおつかい行ってくるから」と玄関の引き戸がガラガラとなった。ザッザッと足音が外で遠く聞こえなくなったところで痛みがひいてきた。風呂入ろ。

 風呂とかトイレは男女別になっていて、部屋も男性と女性が曖昧ではあるが分かれている。確か入居者は男の子って聞いてたから、清子さんの伝え忘れとかがなければ間違って入ってこないはず。そんなラノベ的な展開私が許さない。ラノベは文章もストーリーも嫌いだから。俺最強とか何かやっちゃいましたかとかハーレ厶とかただの自分の都合の良い出来事しか書かない。あとは文章が気持ち悪い。ビックリマークが多かったり、感情表現が単純だったり。どうしてあんな文章能力が欠けているものを売りに出し、実際売れているのか。何が面白いのか私にはさっぱりわからない。

 小説とはもっと啓蒙であり、芸術的なものでなければならない。知識を得て、文体の美しさを知り、正しい価値観を持つためにあるべきなのであって、たかが暇つぶしだとか、都合のいい世界をつくるためにあるのではない。

 いつもそんなことを湯船の中で反芻している。そういうとき、決まって同居者の夢上さんに『だから友達いないんだよ』とよく言われる。私は本が好きだけど、すべての物を許容しているわけではない。特にライトノベルとかいう低俗な文体の物は「とは言ってもな」中学生から自分で小説を書き始めた。書いていくうちに、各出版社の大賞にも応募するようになった。結果は二年前に二つ落ちた。去年に三作落ちた。どれも文章が堅いだとか、もっと感情表現をだとか。やはり小説とは啓蒙で芸術的でなければならない。私にはその才能はない。お母さんにも言われた。

 湯船が熱くて身体が焼けるように火照るから風呂は嫌いだ。たまにビー玉の中に閉じ込められている赤いリーフが湯船に広がって汚してしまうから風呂が嫌いだ。風呂がこういうネガティブなことを考えてしまうから風呂は嫌いだ。自分の価値観が自分を否定してくるから自分が嫌いだ。くだらないプライドで友達が出来ない自分が嫌い。――出よう。そろそろ清子さんも帰ってくるだろう。

 自分の部屋に戻ろうとしたとき、玄関近くの階段が目に入った。新しい入居者。そういえば帰ってから一切上から物音が聞こえてこない。本当にいるのだろうか。いや確かに帰ってきてからそんなに経っていないけれど、木造建築の古家だから足音ぐらいはするはずなのだけど。

 怖いもの見たさ、というべきだろうか。それともすでに憑りつかれているのだろうか。階段の一段目に足を乗せた。静かにゆっくりと上がっていく。折り返しの階段から右側の扉を覗くけれど、なんにもないただの扉。なんだ。やっぱりあの部屋には誰もいなく、入居者も別の部屋に――ドン、何か大きなものが落ちる音がした。肩がびくりと跳ねて、硬直する。お化け、と思ったけれど、多分入居者が転んだ音か。

「大丈夫ですかあ」と声をかけてみるけど、音量が小さく震えているせいか返事はない。このまま見てみぬふりをした方がいいだろうか。いや、もし倒れていたらと考えると不安だ。見るだけ、見るだけ。何か問題がありそうだったら清子さんを呼べばいいし、何かなかったとしてもそのまま挨拶すれば。

 私はやっぱり憑りつかれていたのだろう。このまま清子さんを呼べばよかったと後悔することになった。

 音を立てないように階段を上がる。へっぴり腰で扉のノブに手を掛け、ノックする。

「あの、先ほど大きな音しましたが大丈夫ですか?」

 あ、誰?ってなるか。「あのここに住んでるの青咲美晴ですけど、なにかありましたか?」声を出したつもりなのだけど、やはり返事はない。もしかして、本当に幻聴だったか。幽霊が音を出したのかもしれない。

 ここは走って逃げるんじゃなくて、ゆっくり、何もなかったように階段を降りて――ギギィィィィと背中から扉が開く音がした。

「ダレダ……?」

 その声は低く、酷く枯れていた。その恐ろしくも背中が凍るほどの恐怖を抱えながらも、私は耐え切れずに振り向いてしまった。

 長く白いワンピース、ぼさぼさと乱れた長い髪、その隙間からギラリとこちらを睨みつける目玉。そして何よりも目に引くものは――左腕がない。

「いやああ!」

 とっさにそいつを押し飛ばして、急いで階段を降りた。そいつを押し飛ばした感触が障子の枠のように細く角張っていて、和紙のような薄い肌で――人間とは思えなかった。

 暗い廊下を拙い足で駆けて、居間に飛び込んだ。おつかいからすでに帰ってきていた清子さんが驚いた様子でキッチンから顔を覗かせた。

「どうしたの?そんなに慌てて」

 何とか言葉を出そうと口を開けるが、空気が上手く吸えないせいで言葉が喉に突っかかって出なかった。それでも先ほどの走った廊下を指さし、必死にジェスチャーで訴える。

 何とか、空気を吸うことを覚えて、「でった……でた!お化け!」

「え?お化け?どうしたの美晴ちゃん?」

「だから!二階のお化け!女の!」

 清子さんは私の言っていることがわからず困惑している。実際私もなんて説明すればいいのかわからない。それでも赤ん坊が段々と産声を上げるように、私は声を大きくして、立て続けに清子さんに叫んだ。心身共に恐怖に駆られ、細かいことを考えられなくなっていた。

「腕がない!」

「それって……」

 私が指している廊下から足音が聞こえてきた。――来た。

 思わず、ひいぃ、とひ弱な声が出る。足音は段々とこちらに近づいてきて、真っ黒な廊下から人影がおぼろげに浮かんできた。はっきりとした姿はすでに出ているはずなのだが、涙と、真っ白な霧のせいで、幽霊にしか見えなかった。

 清子さんに縋りより、強く眼を閉じる。段々とこちらに近づいてくる。ダッダッダ、とまじかで足音が止まった。

「どうしたの!」

 今度は清子さんが叫んだ。だけど、私とは違ってお化けを見た恐怖じゃなくて、嘆いているような。

 恐る恐る目を開けると、そこには先ほど立っていたお化けがはっきりと見えた。よく見ると人だった。ワンピースだと思っていた服は長い半袖シャツで、半ズボンも履いていた。髪はぼさぼさとまるで寝起きのように、目を擦っていた。

しかし、その姿にさらに身体が震え、喉が震えた。足に生温かい液体がぽつりと落ちてきた。右手と顔半分が血で染まっている。体が灯りのせいで、骨がより浮き出ているように見える。彼のその姿は亡者だった。

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