夜、雪解け 朝、露伝う

紫 陽花

始まりはいつだって最低で 壱

 そよ風が左袖をふわりと持ち上げた。キャリーケースを引きながら桜波を歩く。左側には木造建築が連なって、右側には駅に続く街並みが続いている。柔らかい桜の臭いが香り、身の回りをみると、キャリーケースや肩などいたるところに花びらが乗っかっていた。ふと空を見上げれば、花びらの隙間から漏れる白い日差しが射しこみ、思わず目を細めた。

 駅から徒歩二十分のところにこの桜並木はあった。メジロのチルチルとはしゃぐ鋭い声が鼓膜をくすぐり、もどかしい。

 これから、ここで鳥や虫などの鳴き声を聴いて過ごしていくかのと思うと、溜め息を吐くのも億劫だった。

 何より夏はまだ始まっていないというのに、気温が高いせいで身体が思うように動かなかった。並木の途中の横道を進み、細い路上に入った。しばらくして大きな通りに抜け、そこをしばらく進んだところにこれから住む、屋敷と言えるほど立派な建物に着いた。

 その建物には木門が構えられていて、その柱には青空ハウスと、古い建物に似つかない新しい表札が載っていた。大きく深呼吸した。新しい生暖かい空気が肺を飽和して、詰まって咳き込んだ。溜め息として吐いて、チャイムを押した。濁音混じりのチャイムが心臓を打ち、無意味が緊張でキャリーケースを握る手に熱が生まれる。

「はーい」と建物から声が聞こえて、すぐに三十代ほどの女性が顔を覗かせた。三十代といっても、肌がきめ細かく手入れされているのがわかる。自分の肌がかさついているのを風が知らせた。ここの大家である清子さんである彼女は内はねボブを揺らし、その慣れた柔らかい笑顔が印象だった。

「これからよろしくね。藤崎壱露ふじさきいつゆ君」

 僕の名前を呼ぶ清子さんに「よろしくお願いします」と頭を下げる。上げたところで自然と目が合い。つい逸らしてしまう。慣れない様子が可笑しかったのか、清子さんはくすくすと喉を鳴らして、僕をなだめる。

「大丈夫よ。ここの皆は優しいから」

 別にそれを気にしているつもりはないのだけど。

 元から引っ越すことには気乗りしなかった。だが自己管理ができないというのに、言い訳するのも許されるはずがなかった。保護者には住むのなら共同生活をと、勝手に決められた結果、ここになった。なつかしさは覚えない。それには変わり過ぎている気がする。

 清子さんに連れられて、青空ハウスに入ろうとしたところで、つい庭先に目をやると、まだオレンジ色の金盞花が咲いていたことに目を奪われた。じっとその花を遠目に見ていると、「ああ、あれね。うちの子が育てているの」「そうなんですか」と生返事に頷くが、偶然だろうか。まあ、花好きは人並みいるか。そう自分を納得させて、青空ハウスの玄関に足を入れた。

「すみません。キャリーケースを中に入れたいのですが、雑巾などはありますか」

「うん、今持ってくるね」

 清子さんは足早に靴を脱ぎ、キッチン方に姿を消していく。待っている間、玄関のすぐ隣にある階段に顔を覗かせる。僕が住む部屋は二階にある。二部屋あるのだが、誰も住んでいない。僕が初めてらしい。住む前に清子さんと電話で話した。二階はやめたほうがいいのではと忠告されたのだけど、僕の強情さに了承してくれた。事情を元から知っているのもあったからか、深く止めてくることはなかった。

 雑巾を持ってきた清子さんはすぐに重いキャリーケースを持ち上げて拭いてくださった。自分でやります、と言ったのだけど、清子さんは気にしないでとそのまま上まで持っていってくれた。二階の右の部屋に一緒に入って、清子さんから共同生活にあたってのルールなどを軽く教えられた。

 食事は用事がないかぎり、一緒に取ること。何が外に出るときは一言言って欲しいこと。自分の部屋は自分で片付ける。他の共同のところは皆で掃除。など、当たり前のことだが、ルールとして出されていた。そのあとリビングに降りて、世間話を少しだけした。

「それにしてもまだ五月にもなっていないというのに、夏みたいに熱いからね」

 そうキッチンから冷たい麦茶を持ってきた清子さんは疲労を感じさせないほど元気にみえた。

 シミの入った木の骨組み。外の空気に薄められたナフタリンのにおい。中を見回したが、不思議と古臭さは感じられなかった。建物こそは古いが内装は二十年前ほどにリフォームされている。

「ちゃんと綺麗にしているのよ」と自信満々と言われたがそれにどう返答すればいいのか分からず「はあ……」と生返事になってしまった。

 それから少し無言が続いて、清子さんはが気まずそうに口を開いた。

「あのさ、やっぱり二階の部屋じゃなくて、別の部屋でもいいんじゃない?ほら上り下り大変でしょ」

「別に基本的に部屋にいるのでそんなですよ。トイレも二階にありますし」

「でも、ほら」「あそこでいいです」

 清子さんの言葉を遮った。しつこい。強情な僕に清子さんはそっかと頷いたけれど、やはり不安は残しているようだった。

「でもなんかあったらすぐに言ってね」

 そうだ、と話を切り替えるように清子さんは手を打ち、「ご飯、食べた?」と聴いてきた。

「いえ、食べていませんがいらないです」と断ったのだけど「だめよ。まだ若いんだから、少し作ってくるね」と僕の返答もまたずにキッチン入っていってしまった。

 共同生活なんて、他人と過ごすなんて不安しかないのだけど、文句は言えない。昼食の準備を待っている間自分の部屋に向かった。

 段ボールは二つ、キャリーケース一つ、後は机と椅子、本棚最低限の物だけだった。これ以上はいらない。

 日差しで埃が煌びやかに光って舞う。掃除したとはいえ、使われていないせいかまだ埃はあるみたいだ。窓を開けて換気するが外が熱いせいか、あまり部屋にこもった熱が逃げることもなかった。風がないのも関係しているだろう。結局窓を閉めて、キャリーケースからパソコンを取り出す。起動させて、文章アプリを開き浮かび上がる文字を綴っていく。

 また埃のにおいがした。古紙のにおいと、幻嗅だろうかアンモニアと血が混じった臭いが鼻を刺激し、天井の梁を見上げる。不自然に木目とは反対に禿げた縄の痕が遺っていた。

「」

 

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