第2話、魔境にて


 ソルツァール王国の辺境にある魔獣領域。凶暴にして獰猛な大型魔獣が棲み、人々は『魔境』と呼んで恐れている。


 高い木々が群生する大森林。そんな魔境に響き渡る咆吼。荒々しく、どこまでも重々しく、耳をつんざき、恐怖を植え付ける。

 翼のないドラゴンのような魔獣が一歩を踏みしめ、苔のついた泥を跳ね飛ばした。

 鼓膜を震わす咆吼に、冒険者たちは雪崩を打って逃げ出した。


「待ちなさい! ここで引いたら――!」


 王国の魔術師であるウイエは叫んだ。高等魔術師の赤いローブ。銀色の髪をフードに隠し、褐色の肌が覗く。二十代半ばの美女だ。


「薬草を! 霊薬の素材を探さないといけないのに!」

「ウイエさん、ダメでさぁ!」

「逃げないとやられちまうっ!」


 男冒険者たちはすでに踵を返している。誰もがドラゴンもどきの巨体と迫力に怯え、戦意を失っている。


「炎よ、山よ、マナよ――」


 ウイエは杖を構え、せめて魔獣を倒さんと詠唱を行う。ギョロリとドラゴンもどきの目が向き、こちらに突っ込んできて――


「ウイエさん!」


 横合いからタックルを受けて、ウイエの体が飛んだ。数秒の差で、先ほどまでウイエがいたところに、ドラゴンもどきが足跡を刻んだ。


「ッ……! フォリア?」


 自身に体当たりして助けたのは、金色短髪の女冒険者。戦斧や大剣を振るう成人女性――に見えて、まだ実は成人前の少女であるのを、ウイエは知っている。


「ここにいたらやられます! 一度、逃げましょう!」

「いえ、でも」


 ここまで来て――ウイエは、これまでで一番魔境の深くへ進めたのがわかっていた。秘薬の素材が、魔境にあるかもしれない。それを言い聞かせ、ここまできたのだ。敬愛する王族の友人の命に関わるのだ。


「ここで死んだら、意味ないです!」


 フォリアは、急いでウイエを立たせると、その背を押して、自分は斧を手にドラゴンもどきと対峙した。


「時間を稼ぎます! 先に逃げてください!」

「何を言っているの!? あなたこそ――」

「早く! わたしも逃げられなくなりますから!」


 その言葉にウイエは言葉を詰まらせた。フォリアは、自暴自棄になっていない。自分も生きて帰るつもりでいる。彼女は純粋だ。まだ子供なのだ。

 彼女の気持ちを蔑ろにできない気持ちと、大人として子供を盾にしなければいけないことが、ウイエの良心を攻めた。


 体は大人顔負け、しかし心は子供なのだ、フォリアは。


「ごめんなさい……」


 フォリアの気持ちを無駄にしてはいけない。案外子供なら、大人より器用に逃げ延びるかもしれない。

 ウイエはしかし、そう思った自分を激しく嫌悪した。


 卑怯者だ、私は!


 すでに逃げた冒険者たちの後を追うウイエ。振り返ることができなかった。ひたすらフォリアに詫びた。

 そんな罪悪感を抱えて退避する女魔術師をよそに、フォリアは、ドラゴンもどきの踏み込みを躱して、しかし斧は手放さなかった。


 怖い。


 本音を言えば、足がすくむ。いつもより動けていない。大人が逃げ出す化け物。その見た目も、凶暴な肉食魔獣であることを馬鹿でもわかる。


 あぁ、これに人間は勝てない。

 伊達に魔境に生息する大型魔獣ではないのだ。大きく、硬く、力も強く、あるいは強力な殺傷技で、外敵を、侵入するものを殺し、喰らうのだ。


「こいよ、化け物ォ!」


 精一杯声を張ったつもりだった。だが降りかかるような魔獣の絶叫に、フォリアは硬直した。

 声量が違う。勢いが違う。冒険者は声で負けたら、相手に呑まれる。


 地面を揺らすほどの一歩を踏み出すドラゴンもどき。次の瞬間には、その鋭角的に尖った歯がびっしり並ぶ大口に捕らわれ、喰われてしまうだろう。


 ここには自分しかいない。誰の助けもない。わたし死んだ――フォリアの中で、周囲の音が消えた。


 あぁ、死ぬ直前って、こうなんだ。


 神様――思わず心の中で呟いたその時、ドラゴンもどきが軋むような悲鳴を上げた。


 迫ってきた大きな凶獣の顔が、あらぬ方向へねじ曲がる。まるで横っ面を力いっぱい張り倒されたような。


「え……?」


 フォリアは目を見開いた。スローモーションのような一瞬、ドラゴンもどきの横っ面に飛び蹴りを入れる人間が見えたのだ。


 若い、しかし年上の男性のようだった。まだ14歳のフォリアからすれば、大抵大人に見える人は皆年上なのだが、周りとはどこか違うものを感じ取った。


 とはいえ、そう思ったのも僅かの間だった。自分の背丈の数倍はあるドラゴンもどきの顔面を蹴りで逸らし、その巨体を後退させたのもつかの間。男は抜剣し、ドラゴンもどきの首を叩き切った。


「……!?」


 フォリアは言葉を失った。目に見えたことは事実なのだが、実感がわかない。まるで頭の中で、こうしたら、できたら、というイメージをそのまま目の当たりにしたような。


 つまり、現実感がなかった。

 ズゥウン、とドラゴンもどきの首が落ちた。遅れて頭を無くした胴体も横倒しになって倒れる。先ほどより大きな揺れがきて、そして静寂が訪れた。


「ウソ……。倒しちゃった」


 ようやく言葉が戻って口に出た。フォリアの目の前で、人間が太刀打ちできないだろう巨大魔獣を、一蹴りと一太刀で倒してしまった男。


 戦士なのだろうか? 二十代、三十代か。子供から見た大人の年齢などあまりあてにならないが、特に筋骨隆々というわけでもなく、目に見えて強そうではない。


 ただ外見の印象とは別に、何か得体の知れない雰囲気があった。飛び抜けて強そうではないのに、強さを感じさせる不思議な感覚。これが威圧感というのだろうか。


 本当に強い人に違いない。フォリアはそう感じた。気づけばその場でペタリとへたり込んでしまう。


 危機からの脱出。ドラゴンもどきが倒されたことで、圧倒的な開放感が脳を満たしたのだ。安堵する。とても気持ちよかった。


「フォリアー!」


 後ろから、先に逃がしたはずのウイエの声が聞こえた。見れば、高等魔術師が杖を手に駆け寄ってきた。


「大丈夫!? フォリア!」

「あぁ、はい。生きてますよ。……どうして戻ってきたんです?」


 せっかく逃がそうと頑張ったのに。ドラゴンもどきが倒されたからよかったものの、そうでなければ死にに戻るようなものなのに。


「子供を一人で置いておけるものですか!」


 フォリアは怖い顔になったが、すぐに申し訳なさそうな表情になる。


「本当は、他の奴らが逃げて、私を待たずにウォークバードを出しちゃったのよ。ごめんなさい。結局、あなたに押しつける格好になってしまって」


 ウイエは視線を上げる。


「それで、これはどういうことなの?」


 倒れた巨大魔獣。そしてその上に乗っているマントを外套よろしく羽織っている若い男を見る。


「あなたは一体……?」

「私か?」


 若い男は、自分に向けられている声に反応した。


「私は、神だ。まあ、元神様というべきだろうが」

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