第14話 乱脚のカルファ
「――『
カルファは名乗ると、スラリと伸びた右脚を挙げて戦闘の構えを取る。
その瞬間、カルファの名を聞いた野次馬達がざわつき出した。
「乱脚? 乱脚って、あの伝説の?」
「聞いたことあるぞ、脚技を得意とする最凶最悪のスケバン……」
一体彼女の称号が何を意味しているのか、野次馬の中にはその名に恐怖心を覚えて震える者までいた。
やれ伝説、やれ最凶最悪。リーベ然りジェーン然り、カルファも一体……。
「乱脚……思い出したぞ!」
その時、男は大きく息を呑んで叫んだ。
その目は今にも飛び出しそうな程丸くなっている。
すると野次馬の一人も思い出したのか、口元を覆いながら語った。
「7年前、エルメスで暗躍していたギャング組織をたったの1夜、それも脚技一つで壊滅させたという黒髪の悪魔――『乱脚』!」
それに続いて、野次馬達は次々と証言する。
「そうだアイツ! 全世界キックボクシング大会に彗星の如く現われ、初出場にも拘わらず、その強さから初回で殿堂入りを果たした伝説の女格闘家……!」
「しかも戦いは蹴りだけ、初出場以降忽然とキックボクシング界から姿を消したんだろ⁉」
「それが、あのカルファさんだってのか⁉」
再び姿を現した伝説の登場に、野次馬達はさっき以上に騒いでいる。
ん、おいちょっと待て。
「カルファ⁉ アンタ本当に元チャンピオンなのか⁉」
しまった、思わず叫んでしまった。
だが幸か不幸か、俺の叫び声は野次馬のざわめきに消えていく。
「ほォ。引退した身とはいえ、アタシもまだまだ有名人らしいなァ。で、そのクチだとアンタ、元ギャングの構成員だな?」
「まさかこんな所で再会するとは思わなかったが、テメェのせいで組織の面子は丸潰れ。お陰で今じゃ
「んなことアタシが知るか。カタギから度を超えたみかじめ料徴収してたバチが当たったと思えよ」
「ふざけるな! テメェ、この傷を覚えているか……!」
男は怒りを言葉に載せながら、一丁だけのぴっちりとしたシャツを引き裂いた。
身体には元ギャングだった痕跡であろう、無数の古傷がそこかしこに付いている。
そして腹の中心部には、焼き印のように刻み込まれた靴底の傷があった。
「懐かしいなァ、まだその傷を飼い続けてたのかい。案外ソイツと仲良くやってそうで何よりだ」
「ほざけ乱脚ゥ! この傷、そして
男は怒りに満ちた雄叫びを挙げると、カルファに向かって突進攻撃を繰り出した。
その両手には鋭く研ぎ澄まされたナイフが握られている。
だがカルファは逃げようとも、まして突撃することもなく、じっとその場で構えたまま動かない。
「往生しやがれェェェェェェェ!」
一瞬にして距離を詰められ、カルファの胸元目掛けて男の刃が炸裂する。
「――――ッ!」
その時、カルファが動いた。
トン、タン、トーン。刹那のリズムに乗るように地面を蹴り、そして奥へ退いた左脚に力を込めて蹴り上げた。
全力の攻撃をするのには、ある程度の助走と力が必要だ。
猫である俺には、不良漫画の主人公みたいに殴ったり蹴ったりする芸当はできないが。
少なく見積もっても、攻撃には1秒から2秒程度の時間を要する。
対してカルファはたった一瞬で脚に力を込め、空中で一回転して見せた。
「ぐッ!」
カキンッ! と凄まじい金属音が鳴り響くと同時に、男の所持していたナイフが飛び上がる。
ムーンサルトキックが男の手に直撃したのだ。
「どうした、まだやるか?」
カルファは余裕そうに不敵な笑みを浮かべ、男を挑発する。
挑発に乗った男は雄叫びを挙げ、今度は右拳を大きく振りかぶった。
しかしその時、一瞬男の腕に違和感を覚えた。
男が力を込めた瞬間、彼の筋肉が「ボコッ!」と大きく膨張したように見えたのだ。
いや、ボディビルダー以上に鍛え上げられた筋肉なら、それが正常なのかもしれないが。
だがそうには見えない。何故ならその腕は生き物のように脈動し、浮かび上がった血管からは蒸気が漏れ出しているからだ。
そして極めつけは、左腕よりも大きく膨張した右腕。
「グラァァァァァァァァ!」
分析している暇も無く、男はカルファを叩き潰さんと拳を振り下ろした。
間一髪、カルファは地面を蹴って回避したが、しかし男の拳が地面に炸裂した。
瞬間、半径数メートル内に地震のような揺れが発生し、男の殴った地面がパックリと割れる。
「おっと、コイツは食らったらマズい奴ね……」
「小癪な……コシャク、ナァ……!」
ゆっくりと拳を持ち上げながら、男は静かに息を吐く。
その目には正気が残っていなかった。
あるのはカルファへの怒りと、悍ましい程の瘴気だけ。
更に俺が見た通り、男の筋肉が一段、また一段と成長していく。
まるで現在進行形で空気を入れられた風船のように。
まるでタイムラプス写真のような容量で、数年と数ヶ月のトレーニング記録を再生しているかのように。
それまで大男に見えていた男は、やがてボディビルダーのようになり、そして3メートル程の筋肉ダルマに進化した。
「な、なんなんだアイツは!」
「ば、化け物だ! あの男、悪魔に魂売りやがった!」
「おい、誰か兵士を、エルメスの兵士を呼んでこい!」
「誰か助けて!」
男の変貌に、野次馬達はパニックを引き起こす。
無理もない。瘴気に取り憑かれた男の姿は、人間のシルエットを残しているとはいえ、殆ど筋肉の化け物だ。
丸太のように太くなった腕、古傷が開き真っ赤に染まった肉体。血液が蒸発してしまう程に熱した身体。
そしてドーピング剤を使ってもここまでならないであろう、人間の限界値を超えた筋肉達。
ただ力を蓄えに蓄え、自我を芽生えさせた筋肉の生命体。そうとしか言いようがない。
そんな怪物が筋肉にものを言わせて襲ってくるのだ。
やろうものなら、リーベの避難している商店を拳一発で破壊することだって可能だろう。
「カルファ、気を付けろ。アイツ、何かおかしい……!」
「見りゃわかるさ、シショー。大丈夫、アタシに任せな!」
それでもカルファは怯まず、ニヤリと口角を上げて楽しそうにしていた。
「アタシが『乱脚』と呼ばれている所以、しっかりその両目に焼き付けときな!」
――ブシュルルァァァァァァァァァ!
正気を失った男は、蒸気を纏った白い息を吐きながらカルファを捉える。
そして次の瞬間、男は膨張した脚筋をバネのように伸縮させて飛び上がった。
「な、なんだ今の……!」
「まるで、魔法ね。でも、あんな魔法見たことない……」
俺の目で見ても、バネのように伸縮した筋肉は異様としか言い様がなかった。
野次馬達も男の技を見てざわついている。
「死ニ晒セェ、乱脚ゥァァァァァ!」
飛び上がった男は叫び、空気の層を蹴って地面に着陸する。
その動きはさながらロケットやミサイルのようで、辺り一面が一瞬にして砂埃に包まれた。
しかしカルファは直撃する寸前に後方倒立回転飛びで回避し、男が立ち上がる隙を狙って回転蹴りを放った。
「どぅぉぉぉぉぉぉりゃぁぁぁぁぁ!」
刹那、周囲を覆っていた砂埃は衝撃波と共に晴れ、二人の姿が露わになった。
「なるほど、そう一筋縄には行かねえってことね」
カルファの放った右脚は、男の丸太のような左腕に防がれていた。
だがカルファは防がれた右脚に力を込め続け、そこから男の腕を地面の代わりに、横へ飛んだ。
「でも、ここで終わらないよッ!」
横へ飛んだカルファは商店の壁に両手を付くと、両脚の先を男の鳩尾に向けて壁を押し返す。
それはさっき、男が見せた技とよく似ていた。しかし男の能力が明らかな異能なのに対して、カルファには種も仕掛けもない。
あるのはプロの体操選手も度肝を抜くほど“異様”な柔軟性と、純粋な“身体能力”のみ。
「食らいやがれッ! 乱脚奥義・
カルファの両脚が、男の鳩尾に直撃した。
「ブフゥッ!」
男はうめき声を挙げ、口から胃液のようなものを噴き出した。
鳩尾といえば人間の急所。一発でも攻撃を食らおうものなら、あまりの衝撃に息が詰まってしまう。
不良ドラマなんかで人を気絶させる時に、よく狙われるのがここだ。
見ているだけの俺でさえ、思わず息を呑んでしまった。一瞬だけだが、男に少し同情してしまう。
だが無理もない。
衝撃だけで砂埃を払う程の高威力。いくら筋肉の鎧で武装していても、その衝撃を全て防ぎきることはできないだろう。
その証拠に、男は蹴られた衝撃で胃液を吐いた。
「まだまだァ!」
今度は男の腹を壁代わりに空中で回転すると、カルファはそこからサマーソルトキックを繰り出した。
脚は男の顎に直撃し、ふらりとよろける。
「
それだけに留まらず、カルファは技名を叫びながら攻撃を続ける。
横回転蹴りから派生して、サマーソルト、少し通常の蹴りを加えながらムーンサルト。
止まることを知らずに続く連続攻撃に、最早男は手も足も出せずにいた。
「す、凄い……! 全然止まらねえ……!」
「あんなの、隙なんてあったもんじゃないぞ!」
「これが、乱脚の実力……⁉」
唖然としている俺と野次馬達をよそに、カルファは攻撃を続ける。
やがてその一方的な戦いは白熱し、どこからともなく声が上がった。
「やっちまえカルファさん! そんな筋肉ダルマぶっ飛ばしちまえ!」
「俺達に見せてくれ! 乱脚の伝説を!」
次から次へと野次馬の声援が送られ、周囲は一気にお祭り騒ぎになる。
その度にカルファの攻撃の威力が上がっていく。
「さて、トドメと行くか!」
言うとカルファは男の頭を踏み台にして飛び上がり、太陽を背に一回転して見せた。
あまりの眩しさに一瞬目が眩む。だがカルファの陰が太陽を覆い、日食が生まれたように錯覚する。
「コイツでも食らっておととい来やがれ! 乱脚奥義・
まるでその光景は、ドリップコーヒーの芳醇な雫が落ちるようだった。
太陽をバックに回転したカルファは右脚を振り下ろし、男の脳天に一発お見舞いした。
音もなく、静かに。まさに最上級のコーヒーを煎れる至福の瞬間を再現するように。
「グ、グォォォ…………」
最後の一撃を食らった男は意識を失い、ダルマのようにゴロンと倒れ伏した。
「うっしゃあ! どんなもんよ……あん?」
その時、倒れた男のポケットから何か紙のようなものが出て来た。
少し黄色がかったそれは、古い本の切れ端なのか、やけに劣化していた。
「なんだ、コレ?」
カルファはそれを拾い上げ、俺の方を向いた。
俺も少し気になったので、カルファの肩に載って紙の中身を確認しようとした。
だがタイミングが悪かった。
「お前達! そこで何をしている! 強盗がバザールで暴れていると通報を受けた!」
野次馬の向こう側から、風鈴のように凜々しい声が聞こえる。
振り返ると、遠くから純白の鎧に身を包んだ兵士と、赤髪の女騎士の姿が見えた。
威圧感を放つその一団は無駄のない足取りでこちらへ近付き、野次馬達を追い払う。
「それに先程の凄まじい音! 貴様ら、一体何をしていた!」
近付く程に、一団の威圧感が強くなっている。
「か、カルファ……コイツはヤバいんじゃ……」
何でか分からないが、俺の背中の毛が逆立っている。
そうして赤髪の女がカルファの前に立つと、その場で剣を抜いて地面を貫いた。
――カァン! と耳が痛くなるような金属音を響かせ、赤髪は剣先のように鋭く尖った目でカルファを睨んだ。
「何者かと思って来てみれば。この騒動、貴様の仕業か?」
カルファの顔を見るなり、彼女は瞼を痙攣させながら呟くように言った。
「カルファ……!」
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