おーみそか ➂

「あの人は、もう……。そうよね……仕事納めの日、あの人は後輩が運転する車に乗ってたんだもん。営業から帰る途中、事故に巻きこまれて、車に体が挟まって……逃げ遅れて、爆発して、炎上して……あぁっ……」

 ゴンドラの中、ふたりは意味のない七色に彩られる。その密室が頂上に近づくにつれて、九重のバックボーンも見え始めていた。

「キミを爆発で脅したのは、二度とあの苦しみを味わってほしくないと願ったから」

「中居に敵意をむき出してたのは、元恋人の命を奪った後輩と重なったからか?」

「あと……チョーカーをつけたのは、思い出の品だったからよ」

「例の暗号の意味は?」

「アレはもう終わった。労働者は竜巻として、三十日に役目を果たしたし」

「初めから中居のことだったのか。デジカメで思い出の場所を取らせた理由は?」

「ふたりだけの新しい記録……いや、記憶が欲しかった」

 早口の押し問答のあと、少しばかりの沈黙が流れた。

「本当に、俺と元恋人を勘違いしてたのか? 実際、どこかで気づいてたんじゃないのか? そうじゃないと辻褄が合わない」

「最初は、あの人の生き写しだと思って……信じてやまなかった。けど、途中から別の感情が芽生えてたの。あの人の代替だいたいになれば良いって」

「人には、それぞれの道があるんだ。誰も代わりになんてなれない」

「……もう完全に終わりね」

 短い文言。彼女が言い放つ『終わり』には、そこはかとない深さと、途方もない重みがあった。

「あぁ、そういえばお前が爆破した中居。アイツ、奇跡的に一命を取り留めたって夕方の記事に書いてあったぞ? 殺人犯にならなくて良かったな」

「はぁ……なんだかなぁ。火薬の量、間違えちゃったかな」

「最初から間違ってたんだよ」

間違ってた……か」

 ゴンドラがほどなく頂上へ到達する。

 見晴らしの良い港湾、煌びやかな職人たちの作品、ごみごみとした地上――新しい年には目も暮れず、九重はカバンから消しゴムのような物体を取り出し、それを観覧車のドアに張りつけた。ほどなくスマートフォンをタップすると、爆竹のような音とともに小さな火花が上がり、ロックが外れてしまった。

 ドアはバタバタ、蝶番はギシギシ――強風が誘う地獄への入口が開くと、理久は思わず一歩下がった。

「キミが撮った写真は、すべて現場になってるわ。それを警察に見せて、誰がを知らせてあげて」

「お前が出頭すれば済む話だろ」

「なにが?」

 と、九重はとぼけたような顔で首を傾げる。理久の声なんて届いていない様子で、よろよろと立ち上がった。

 様子がおかしい。ひょっとして、この女――


「お前……? や、やめろ! 今ここで死なれたら――!」

 首の爆弾を外す奴が居なくなる、と言いかけた理久は口を閉じた。納会の日、九重はハッキリと『外し方を知らない』というパワーワードを口にしていたからだ。

「こんなわたしを止めてくれるの?」

 だというのに、この期に及んでも自己中心的な感傷に浸り、寝る前に考えたであろう一方的な感動を醸そうとしていた。都合の悪い言動なんて、とうに自らの記憶から消しているのだ。恋人が死んでしまったのは悲しい過去だが、それを他人に押しつけている時点で、一ミクロンの同情もできない異常者である。

「くそっ、どうする……!」

「そこまで、わたしのために?」

 首の爆弾をどうするか? 悩めば悩むほど、夜空で輝いている目障りな爆発に苛立ちが加速する。いっそ、この女に抱きついて心中を仄めかすか? いや、脅されて言うことを聞くようなタマではないことくらい、推して知るべし。

 もっと別の方法が――

「考えろ俺。もっと良い策があるかもしれない」

「ありがとう。でも……もう、救われる方法なんてないの!」

 そもそも九重が居なくなれば、誰も爆弾のスイッチを入れられないではないか。このまま落下させたあと、警察に事情を説明して爆弾処理班を呼んでもらえば、案外簡単に外してもらえるかもしれない。

「なんだ、意外と簡単に助かるじゃん」

「え? 簡単な方法があるの? わたしが救われる方法が――」

 理久は、気が抜けた拍子に硬い座席へ腰を深く沈めた。そんな瞬きの間だった、突風が吹きこみ、九重がよろめきながら肉声を漏らしたのは。見計らったような自然の悪戯は、いとも簡単に人間を連れ去ろうとしていた。

 バランスを崩した華奢な体が、背中から外へと放り出される様が理久の両眼に映り、あぁ――コイツは地上に叩きつけられて死ぬんだな、と考える余裕さえ生まれていた。目の裏に、【助ける】【見捨てる】という二択が目前に浮かぶくらい、ゆっくりとした時間だった。

 理久の脳内に棲む、天使と悪魔がふたりして『見捨てちゃえよ』と、非道な囁きを行ってくるくらい、ゆるりとした一時だった。


 だというのに理久は腰を上げ、左手を伸ばして死ににゆく者――ノンソーシャルで、ドメスティックで、クリミナルな女の腕を鷲掴みにし、右手でゴンドラ内のバーを握りながら踏ん張っていたのだ。

 きっと目が合ってしまったがゆえに、体が動いてしまったのだと理久自身は推測したが、それだけとは到底思えず、

「わたしを……助けてくれる……?」

「め、目の前で人が死なれたら、夢見が悪い……!」

 ――結果、誰よりも自分が可愛いからという結論を導き出した。

 余裕を見せたつもりだが、軽すぎる体が風で煽られ、理久自身の体も外へ持っていかれそうになった、幾度となく。

 足で踏ん張り、右手に力を込め、左腕で九重の体を引き上げようとするが、それが上手くいかないたびに、体力が目減りしていった。

「おい……! 早くっ……どっか掴まれって!」

「わたしは自ら死のうとした女……どうせ助けても――」

「めんどくせえ女! じゃあ本当に離すぞ! 落ちたきゃ勝手にしろ!」

「え、あ……っ、見限られるのはヤダっ……!」

 理久が匙を投げようとした途端、九重は体を捻りながら、空いた片手をゴンドラの縦枠へと伸ばした。ある程度、体の自由が利くようになると、今度は床の縁に足を引っかけ、いとも簡単にゴンドラ内に戻ってきた。

「――いってぇ……!」

 九重が飛びこんできた反動で、理久は座席に腰をぶつけたあと床へ転がり、反対側の枠に頭部をぶつけ、ゴンドラ内には振動が走った。

 震度――たぶん三。

「本当に助けてくれたの? キミの気持ちは嬉しいけど――」

 またがりながら九重。

「お前が死んだら、爆弾が外せなくなるからだよ!」

 理久は抑えきれず、九重を力任せにどかし、首元を触りながら声を張り上げた。九重につけられた死のアクセサリーを、これ見よがしにアピールするつもりだったのだ。しかし触ってみてから異変に気づいた。首筋はやけに寂しく――いや、首を一周する感触がなくなっていたのだ。

「え、あれ……?」

 胸が爆発するような緊張。すなわち、体ごと跳ね上がるような鼓動。

 理久がゴンドラ内を見回す。その視界に入ってきて、存在感を誇示していたのは、ぽつんと座席の上に居座る――もとい、無造作に転がるレザーチョーカーだった。どうやら、今のひと揉めで外れてしまったようだ。

 当惑も疑問も、いっぺんにやってきた。

「取れた……。なんで……爆発しない?」

 レギュレーションを違反しながらも、心臓が動いている事実を確認すると、もう気が抜けてしまい、次の呼吸の時には感情の箍が外れ、今まで溜まっていたものが溢れ出そうとしていた。

「えぇー? 外し方を知らないって言ったのは、初めから爆発なんてしないからよ? ふふ、良かったねえ? コレで安心しべっ――!」

 九重の口から発せられる、懲りない冷やかしが途中で寸断された。

 我知らず、理久が平手打ちをぶちかましていたからだ。手加減は念頭になく、手を上げる行為にさえ迷いはなかった。あまつさえ罪悪もなければ、反面では溜飲が下がることもなく――

 異性を殴るなんて一度も考えたことがない人生だった。が、こればかりは他人に責められる謂れはないと思った。九重にとっては端からただのゲームで、殺す意思なんてなくて、良いように弄ばれていただけだとしても、理久は自分の行為が間違っているとは思わなかった。

「こんなに悲しいの……久しぶり……」

 内股でへたり込んだ九重は、理久の拒絶をもって動かなくなった。彼女の、あごまで届く大粒の涙は一切の同情を誘わず、警察に連絡する邪魔立てにはならなかった。

 扉が開いたゴンドラが地上に戻るなり、異常を察した係員によって観覧車全体が止められた。

 ふたりのゴンドラは二周目には向かわず、降車したあとは誰の言葉も届かないままに、時が動くのを待ち続けた。警察が到着してからも、九重は異様に大人しく、無抵抗のまま指示に従っていた。彼女が向かう先は、警察署か留置所か――どちらでも良いと、安堵の溜息が漏れる。

 同様に理久は別のパトカーに乗せられた。事情聴取は後日行うので、今日はこのまま自宅に送り届けてもらえるという。後部座席から見上げた空には、静寂と漆黒が戻ってきた。それに比べて地上の狭さと来たら、もう反吐が出るほど汚くて――


「あ、観覧車のライトアップ消えた。ようやく帰れる……」

 理久は身近な犯罪から解放され、ほんのわずかに理解した。

 これだけ狭い世界で犯罪に走ってしまう、人間の心情を。

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