12/29 ①
寒天に浮かぶ灰色の雲は、いやに流れが速かった。
それだけ海風が身を切ってくる午前の街角。多忙なフリを醸すのが得意なその他大勢は、煩雑な靴音をまだ交えてはいない。
「あの女……なにが目的なんだ」
あれから
『――場所がわかったら、そこで自撮りしてきてね』
本日、目覚めてから何度も
メインアイテムが奪われた以上、アプリの使用はおろか、知人に連絡を取ることさえ叶わず、代わりに与えられたサブアイテムがDIYボムだなんて泣けてくる。
これは、生まれつきの記憶力が生んだ厄介事か。それとも昨晩、酔ったフリをした九重を家まで送ってしまったのが間違いだったのか。彼女の具合が落ち着いたら帰宅するつもりだったというのに、一杯のお茶をもらった末、あの始末である。
「下種の後知恵……」
理久は浅はかな回顧の狭間、会社の最寄駅まで地下鉄に揺られた。まずは周辺の居酒屋を回り、少しでも記憶の蘇生を図ろうとしたのだ。
「チェーン店はきっと違う。でも新入社員みんなが来るんだし、小ぢんまりとした個人店でもない」
思い出そうとすればするほど、脳裏を過るのは、うっすらとしたあの時の記憶。すぐ横には九重の顔があって、妙に男慣れしている親近感で、それだけ彼女の匂いを感じられる距離で――
『あっ……どうも、愛梨ですよ? なんか、ここ久々だなあ』
やはり隣に座っていたのは間違いない。また、その記憶にはタバコの臭いがへばりついていなかった。理久が務める会社のほとんどが禁煙者のため、会場は喫煙禁止の場所だったのだ。
タバコが吸えない場所となると――やはり居酒屋ではないのか。
『えぇ……そうですよ? ふふっ、覚えてないのぉ?』
新入社員と先輩社員が収まる場所なのだから、会場もそれなりの規模があったはずだ。それでもって座敷ではなくホールだった気がする。
ふとビルに、自分の冴えない全身が写った。
頭髪はボサボサで、黒縁のメガネを外したらもっと冴えなくて、やけに猫背で、年末年始に気を抜けばすぐ膨らみそうな下っ腹で、ダサい色のリュックを背負っていて、しかも家に帰らず、風呂にも入っていなくて――
「……はぁ」
ビルにはオフィスのみならず、コンビニやら、カフェやらが入っている。その反対側にはホテルもそびえており、理久とは無関係なお洒落な
そう、ホテルなんて到底――
「あっ、そうか……! 確か、ホテルの宴会場だったんだ!」
ひょんなことから答えを導き出して、数秒。新入社員と現社員とは、テーブルが分けられていたことを思い出して落胆した。あの日、間違いなく隣に座った彼女とコミュニケーションを取ったのだから、やはり記憶違いか。
『仕事納めの日に決まってますよぉ。んふふ、忘れっぽい人なんだから』
あの時の声が執拗なほど外耳に居座り、ことあるごとに鼓膜を振動してくる。心地良かったその女声は、もう――
「あれ、軽石さんっすよね……?」
理久が当てもなく飲み屋街をうろついて数十分。人々が街に出てきた頃、後方から男の声がした。
「あ、やっぱそうだ。え、まさか……今日も仕事ですか?」
それが回りこんでくると、すぐに『聞き覚えのある声』から、『後輩の声』に置き換わった。
「あ、中居くんか。いやちょっと用事があって……この辺にさ」
「スーツ姿で……ですか? まあ、深くは聞かないっすけど」
苦笑いを浮かべる男は、ひとつ後輩の中居。歳も社歴もたった一年しか違わないが、今でも律儀に敬語を使ってくる人物である。理久は咄嗟に、チョーカーを覆い隠していたマフラーの位置を整えた。中居もまた、それに釣られるように自分のマフラーを巻き直していた。
「そういや昨夜、
「そ、それはないよ、ははっ……。それよりも聞きたいことがあるんだ。今年の新入社員歓迎会って、どこで開催されたっけ?」
ニヤニヤしながら恋バナを展開しようとしてくる中居と、それを華麗に回避する理久。ふたりは向かい合いながら、いつもの調子を取り戻していった。
「オレが忘れるワケないじゃないっすか。幹事っすよ?」
「そうだったっけ? ホテルのホールだった記憶があるんだけど……そこで九重さんと話したような気がしてさ。覚えてないかな?」
「新歓はいつも現社員、新卒とで席が分かれてるから違くないですか? 二次会で話したとか? ほら、あのあと急遽レンタルスペース借りて、行ける奴らだけがテキトーに酒持ち寄ったじゃないですか。って、まさか……それも覚えてないんすか?」
「ごめん、記憶力が悪いの。でも、それで合点がいった……! そのレンタルスペースの場所を教えろください! 実は今、諸事情でスマホ持ってなくて」
「やっぱワケありっすね。わかりました、なにも聞かずに力になりますよ」
そうして中居が、右手でペンを持つ仕種を見せてきた。理久はすかさずリュックから書類の裏紙とボールペンを取り出し、それを手渡す。一分もせず裏紙には、簡易ながらも的確な地図、住所、建物の特徴が記された。
前から思っていたが、この男は本当に優秀な人物だ。顔も性格も器量も良いのだから、モテないわけがない。
「ありがとう! あとで絶対に埋め合わせはするから!」
理久は謝意を発しながら頭を下げると、嬉しさやら、恥ずかしさやらで、その場を速足で離れてしまった。
「軽石さんは約束守る男ですもんね! 期待して待ってますよー!」
陽が差し始めた町の片隅、背中で後輩のエールを聞きながら。
到着したのは港が眺望できるタワーマンションで、中居の情報によると、そこの十五階がレンタルスペースのようだ。改めて外観を見上げ、理久は早々に建物を写そうとしたが、あまりにも大きすぎるため画角に収まりきらなかった。
「部屋の前で自撮りして退散だ。そう、俺は怪しい者じゃない」
エントランスにロックはなく、すんなりとエレベーターに乗りこめた。縦長に並んだ三十一階までのボタンを見ていると、それだけで目が回りそうだった。理久は十五階を押し、一分もかからずに『1505』の部屋の前へとやってきた。廊下はホテルの通路を模しており、一般的なマンションのように吹き曝しではなく高級感がある。
「ここ、確かに来たことある。十人くらいで酔っぱらって……。いや、とにかく誰かが来る前に写真を……」
理久ははにかみながら自らを被写体にし、その部屋番号も写るようにシャッターを押した。不安なので二回。
「オッケー……!」
任務完了。と、安堵混じりの鼻息を吐いた瞬間だった。
突如として背後から爆音が響き、理久は身を飛び上がらせながら顔を伏せ、両手で頭部を庇う仕草をした。
「……えっ?」
が、幸いにも理久に怪我はなく、マンションにも破損は見当たらなかった。
どうやら、爆発ではなかったようだ。疑念とともに目を凝らし、付近を調べてみると、小型スピーカーが壁に貼りつけられているではないか。
こんな馬鹿げた嫌がらせをするのはひとりしか居ない。
速くなる鼓動に合わせて怒りが燃え上がる。
「アイツ、マジでいい加減に……」
すると今度は、背にしていた扉の開く音がした。肉声混じりの情けない反応。確認する間もなく、理久は中から現れた人物によって、背後から抱きしめられた。
「待ってたよぉ?」
背筋を凍らせる声。また、嗅ぎ覚えのあるダイレクトな芳香。足下がぐらついて玄関に倒れこみ、その人物と重なりながら、くんずほぐれつ、わたわたしている間に、ゆっくりとドアがしまっていった。
九重愛梨――今回も油断していたとはいえ、相変わらずの馬鹿力である。
「お前っ……!」
「ほらぁ、怒りに任せてわたしを犯しても良いんだよぉ? 玄関でヤっちゃう? だいじょぶ、キミの業はすべて受け入れるからぁ」
「同じ犯罪者になるのは無理だ」
「さて、それはどうでしょう? コレはねえ、同じ穴の手品よ」
わかりにくいボケへツッコミを入れる暇もなく、起き上がった九重に「こっち」と手招きされ、リビングへと案内された。
やはり、接触は避けられなさそうだ。
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