肩たたき
増田朋美
肩たたき
その日はよく晴れて寒い日であった。そんな日はこたつに潜っている人が多いと思うけど、何故か出かけたくなる人が出てくるというのだから不思議なものである。杉ちゃんは、東海道線を降りて、エレベーターに乗ろうかなと思ったその時。
「東海道線ご利用の方にご案内いたします。ただいま、蒲原駅付近で、人が電車に接触したという情報がありましたので、東海道線は一時運転を見合わせております。次の電車は、富士駅にてしばらく停車いたします。」
駅員がそう言っているのが聞こえてくるので、よほど大きな事故だったのだろう。周りの人達がガヤガヤと騒ぎ始めた。もちろんこの富士駅で降りる人であれば、大したことは無いのでもあるが。
「ほら、姉ちゃん。大丈夫だから、一度電車を降りよう。しばらくカフェとかそういうところに行って、それで別の電車に乗ればいいよ。とりあえず、人があまり行かないところに行こう。」
どうも聞き覚えのある声がした。それと同時に、
「でも電車が動かなくなったら。」
と、泣いている女性の声がした。
「良いから姉ちゃん。早く出るんだ。電車が動くのは、何時間もあとだから。」
そう言いながら二人の男女が電車から出てきた。それと同じに杉ちゃんが、
「ブッチャーじゃないか!」
と言った。
「ああ杉ちゃん。静岡まで行く予定だったんだが、ご覧のありさまで大変な事になってしまった。ほら姉ちゃん。大丈夫だよ。その顔のハンカチ撮ってくれ。ここに居るのは杉ちゃんだよ。」
ブッチャーこと須藤聰は隣にいた女性に言った。女性は白いハンカチで顔を覆って泣いている。そこに居るのはお姉さんの須藤有紀だった。
「そこにいるのは、須藤有紀さんだね。」
杉ちゃんはいつもと変わらずに言った。
「とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いてもらおうか。じゃあ、駅の中にあるカフェに行こう。」
ブッチャーはそう言って、有紀の手を無理やり引っ張った。周りの人達はなぜ有紀が顔を隠しているのか、不思議そうに見ている。有紀としてみれば、それが恐怖に見えてしまっているのに違いない。
「早く出よう。」
ブッチャーと杉ちゃんは有紀を自分たちの間に入れて、エレベーターに行った。有紀はエレベーターに乗るのを少しためらったが、杉ちゃんがほらのりなと言ったところ、なんとか乗ってくれた。
「よし、じゃああそこにあるカフェに入ろう。」
ブッチャーと杉ちゃんは改札口に行った。有紀は切符を出そうとしなかったので、自動改札機に入らず、駅員に切符を切ってもらった。駅員は有紀の事を単に心の状態が悪い人なのかなという程度に見てくれたらしく、それ以上彼女の話を聞くことはなかった。
三人は全員、切符を切ってもらって改札口へ出て、とりあえず駅の敷地内にあるカフェに入った。カフェは幸い空いていて、あまり人がいないところが良かった。
「ほら、姉ちゃんここに座ってくれ。俺、飲み物頼んでくるからちょっとまってて。」
ブッチャーがそう言うが、有紀はその通りにしようとしない。
「有紀さん大丈夫だよ。ここに座ってくれると僕らもホッとする。だから、座ってくれるかな?」
と、杉ちゃんが言う。意外に私が、という言い回しをすると、なんだか通じることがある。だけどマニュアル通りには行かない。そういうふうにされているということを知られてしまうと、かえって傷つくこともある。杉ちゃんは一応そういうふうに言ってみたが、有紀はその通りに座ってくれた。
「それじゃあ、その顔にかけてる、ハンカチを取ってくれないか。誰もここではおまえさんの事をバカにする人なんて居ないから。」
と、杉ちゃんがそっと言うが、有紀は、まだ周りの人が怖いといった。多分別の世界に入ってしまったのだと思われるが、杉ちゃんたちは無理やりそれを戻そうとはしなかった。
「それで、どうしたんだよ今日は。何か、電車の中でトラブルのような事あった?」
杉ちゃんは、有紀に気軽に話しかけるように言った。有紀はそれでも泣いたままだ。何よりも、精神的な疾患のある人には、症状を成文化させることが大事だった。それを口に出して言うこと、つまり言わせることも大事なのである。
「ねえ、教えてくれないかな。僕、何も悪いことはしようと思わないんだ。お前さんの事を、悪く言うこともない。ただ、お前さんがどうしてそんなに辛そうなのか、その理由を知りたいだけだよ。それだけなんだ。」
と、杉ちゃんは、できるだけ気軽な感じで言った。こういうときに医療従事者が話すのと、そうでない人が話すのは、印象がまた違ってくると思う。医療関係者話すと効率よくつたえるすべは持っているが、患者が自分を利用していると感じ取られてしまうと、信用関係を築くのが難しくなる。逆に、そうでない人が話しかけた場合は、信頼ができるので医療従事者よりも伝わりやすいことが良いことでもあるが、つたえる技術はもちあわせておらず、患者の言うことをまともに信じてしまって、逆上してしまうこともあり、返って難しいことのほうが多い。つまり、有紀のような女性に話しかけるのは、医療従事者でも、信頼できる人にも非常に難しいことが多く、かなり技術がいるというか、なかなか大変な作業でもあった。
「本当にそれだけ?」
有紀はそういった。
「また私が変な事を言っていると言って、病院に連れていくのでしょう?そうよね。私のような人は、居てもじゃまになるだけだものね。それでは、私なんて居ないほうがいいってみんな思っているんでしょう。私は、あのとき電車にとびこんで死んでしまえばよかったのよ。」
そういうことは、非常に多く感じることでも知られている。自分が居ないこととか、居なければいいとか、そういう家族の愚痴を、有紀のような女性は、敏感に感じ取ってしまって、そこから回復するのは非常に難しいものである。
「そういう事かもしれないね。」
杉ちゃんは、正直に言った。
「そういうことは、どんなやつでも感じてしまうんだろうな。僕みたいなさ、歩けないやつはどうしても、電車に乗ろうとすると、駅員に手伝って貰わなくちゃならん。だから、どうしても、電車が5分くらい遅れてしまうこともあるんだよ。そうするとな、周りのやつが目をギョロッとさせて、それを見るんだな。それと同時にさ、本日は障害のあるお客様がご乗車いただけました関係で、予定時刻よりも5分ほど遅れて発車いたしますって、アナウンスが流れるんだ。それがまあたまんないねえ。こいつのせいで、5分遅れてやがるなんて、変な顔して見るからな。中には、あの障害者ムカつくとか言ってる、高校生だって居るわけだ。まあ、若いやつほど、自分のことしか考えないけど、時には、自分のことだけを考えてればいいのかなって思っちゃうことだってあるんだ、はははは。」
杉ちゃんは、ブッチャーが持ってきたコーヒーを飲みながら、そういう事を言った。杉ちゃんの苦労話というか、そういう弱いところをさらけ出してしまうところは、なんだか、不思議な能力と思うようなところがあった。
「そうなんだ。杉ちゃんもかなり苦労しているのね。そうやって人の目を浴びるって怖いわよね。あたしはどうしても周りの人が怖くて、もうこのハンカチを外せない。」
有紀はまだ泣きながら言っている。
「うーんそうだな。でも一人だけ笑っているやつが居るってことを確かめるために、そのハンカチ外してくれないかな。僕はねえ、少なくとも、お前さんのことを、笑うとか、バカにすることは、無いからな。だって、お前さんがさっきの話を聞いて居るんだったら、少なくとも僕らはおまえさんの仲間であるってことは、わかってくれるかな?」
杉ちゃんに言われて、有紀は恐る恐る、顔にかかっていたハンカチを外した。
「大丈夫、この顔を見ろ。ほら、お前さんのことをバカにしている顔ではなくて、潰れたアンパンみたいに、へしゃげた顔の僕がここに居る。」
有紀は、杉ちゃんの方を見た。杉ちゃん自信は確かに笑っているが、隣でブッチャーが心配そうにしているのが見えた。
「ああ、こいつはな、お前さんを怒っているわけじゃない。ただ、心配なだけなんだよ。僕も、こいつも、それからみんなも。なんでもお前さんを、病院にぶち込んでしまえとか、そういうことは、誰も思っちゃいない。それよりも、お前さんがすることは、まず、電車の中で何が起きて、どうして周りの人たちが怖いと判断してしまったのか。その理由を話してくれることだな。どうだ、これでもできないか?」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「そうね。」
有紀は小さな声で言った。ここで大事なことは、有紀自身も、症状を口に出して言うことはとてもむずかしいということだ。精神疾患の人は、感情だけで動いてしまうようなこともあるのだし、それが他の人よりも甚大に感じすぎてしまうことで、言葉に出して言うのが難しくなるのである。そして、もう一度いうが、信頼できる人でないと、話すことはできないというのも、大きな関門であり、これを通り抜けることは、非常に難しかった。
「じゃあ、ちょっと教えてくれないかな。お前さん、電車の中で何があったんだ?」
杉ちゃんが改めてそう言うと、
「あたしは、ただ弟の聰と一緒に電車に乗っていただけで。」
と、有紀は話し始めた。
「うん、弟の聰さんならここに居る。」
杉ちゃんはすぐ返した。ブッチャーが俺はとなにかいいたそうだったが、杉ちゃんはそれを止めた。
「それで、何があったんだよ。」
「ええ、吉原駅で、電車に乗ったら、前の電車で、人が電車に接触したと放送があったわ。そして、富士駅で、電車が一時停止すると放送があった。あたし、どうしようか分からなくて、困ってしまったの。そうしたら、前の座席に座っていた人が、お前のせいだって、そういったのよ。」
有紀の話に、ブッチャーはそんな事あるわけ無いと言い聞かせて居るのになと言いかけたのであるが、杉ちゃんにそれを止められた。そんな事あるわけ無いと言う言葉や、俺の話が通じないのかという様な発言はかえって患者を追い詰めてしまうからだ。
「そうなんだなあ。それは誰がお前さんに言ったんだろうな。それはなんていう名前の人間がそういった?それなら名前を教えてくれたっていいだろう。変な言いがかりをつけられたということで訴えてもいいんだぜ。」
杉ちゃんはできるだけ気軽な言い方で言った。
「名前を教えてくれって、前の座席に座っていた人だから名前を知らないわ。でもそう言っているの。」
有紀はそう答えた。ブッチャーがそうやって言い逃れをすると言おうとしたがまた杉ちゃんに止められてしまった。
「そうか。全部のものは名前があるんだぜ。雑草というものはないというだろう。そこいらに生えてる雑草だって、牧野なんとかという偉い人が名前をつけてるんだよ。だから人間だって、名前があるんだぜ。まあお前さんが言う、名前を知らない人が、電車が止まったのはおまえさんのせいだっていう事実の真偽は不明だが、少なくとも、お前さんがそういうんだから、そう言われたことにしておこうな。」
杉ちゃんはでかい声で言った。ここで大事なのは患者である人物の、話を全否定してはいけないということだった。そして真偽を追求してしまうのもいけない。それは、患者さんを傷つけてしまうことにつながる。
「でも私には聞こえたのよ。そう言っているのが。」
有紀は小さな声で言った。
「そうか。じゃあ、今回はそういうことでもあるとしておこうか。じゃあ、次にもし、こういうことがあったらだな。そいつの名前を聞いて紙に書いておくことだ。それがわかったら、お前さんが悪いわけじゃなくて、お前さんの病気が悪いと言うことである。誰もお前さんが悪いとは言ってないよ。人に迷惑かけたなら、かけない様にちょっとでも努力をすることと、次に二度と繰り返さない様に努力することが大事なんだ。それさえ見せれば大丈夫だ。そこだけははっきりさせておくこと。それは、お前さんを責めているわけではないんだよ。」
杉ちゃんはにこやかに笑ってそういう事を言った。本人のせいにしてはいけない。たとえ、常軌を逸した立ち居振る舞いをして、それが批判されても本人のせいにしてはいけないのだ。それも、精神疾患を持っている人と付き合うには必要な技術であった。
「だからなあ、お前さんは、今、すごい苦しいんだろ?お前さんは、自分がしたことを周りの人から怒鳴られるのではないかということで、それで怖くて顔をハンカチで覆った。違うかな?」
杉ちゃんがそう言うと、有紀は小さく頷いた。
「じゃあ声に出して言ってくれ。」
杉ちゃんが言うと、
「はい。」
とだけ有紀は言った。
「まあ、そういうことはな、きっと、お前さんは、病気の症状というか、そのせいで苦しい思いをしたんだろうね。だから、それを和らげてくれる人にあってさ、それで楽にしてもらおうと思わないか?もちろん、お前さんは、帰れないとか、入院させられるんじゃないかとか、そういうこともあるんだと思うけどさ。まあ、そういう気持ちが発生してしまうのは、もうしょうがないところだから、それはお医者さんに見てもらって、必要があったらにさせてもらおうな。それはね、僕らにはわかんないところだからな。僕らも、お前さんを楽にしてやりたいからさ。影浦先生に来てもらってもいいかな?」
と、杉ちゃんは笑顔でそういったのだった。有紀は、小さな声で、
「やっぱり、私は、病院に行かされてしまうのね。やっぱり私は、居ないほうが良いと思われているのね。」
と、有紀は杉ちゃんの顔を見て言ったが、
「そういうことじゃないんだよなあ。ただ、お前さんが、苦しいから、それを取り除いてやりたいだけなんだ。別にお前さんを、厄介払いしようとか、亡きものにしようとか、そういうことじゃないんだ。まあ、これだけはねえ。難しいところだよねえ。それだって、お前さんは、変な人扱いをたくさんされてきたんだろうし、それで、もうこの世から必要ないってことも散々言われてるだろうしねえ。まあ、僕がそういう気持ちで居るってことをわかってもらうのは、難しいかな。まあ今回それならそれでもいいさ。でも、お前さんに楽になってほしいと思ってるってことは、忘れないでくれないかな。」
杉ちゃんはそういうのだった。それを見てブッチャーが、
「姉ちゃん!杉ちゃんは悪いことを言っているわけじゃない!頼むから、影浦先生に来てもらってくれ!」
というのであるが、杉ちゃんは、ちょっと待て待てと言い、
「まあ、僕もブッチャーも、残念ながらお前さんを楽にしてあげる技術は持ってないんだよ。肩たたきをしたって、何も変わりはしないだろ。そうするには、影浦先生に見てもらうしか無いだろ。だったら、そうしてあげようと思うわけよ。こんな馬鹿に、落ち着いてなんて言える権利はないわね。だから餅は餅屋で、そうやって見てもらおうと思っているのだが、それは、信じてもらえないよなあ。まあ、仕方ないか。」
とできるだけ明るい顔で言うのだった。そして、
「なんなら、向こうを向け。今から肩たたきをする。それで、なにか変わったら、お前さんの言うことが正しいということになり、変わらなかったら、僕の言うことが正しいということにしよう。」
と言って、有紀の肩をたたき始めた。杉ちゃんの肩たたきは、ツボを抑えるのがうまく非常に上手だった。ブッチャーが心配そうな様子であったが、有紀は暴れることもなく、杉ちゃんの肩たたきに応じた。
「すごい、気持ちいいわ。」
有紀が思わずつぶやくと、杉ちゃんはブッチャーに目配せした。それが何を意味するのかすぐに分かったブッチャーは、急いでスマートフォンをカバンの中から引っ張り出し、
「もしもし、影浦先生ですか。須藤聰です。また姉が電車が止まったことにより、パニックを起こしてしまいましたので、急いで来ていただけないでしょうか。ただいま富士駅の構内にあります、カフェテラスに居ます、、、。」
と影浦先生に連絡を取った。有紀は、杉ちゃんの肩たたきがとても気持ちが良いのか、ブッチャーに反発することもなかったし、変に怒るということもなかった。それだけではなく、
「あたしは、影浦先生に何を話したら良いのかしら?」
とブッチャーに聞いてくるくらいだから、杉ちゃんもブッチャーも驚いてしまった。
「いやあ、僕に話してくれたのと同じ様に話してくれれば良い。さっきあった事をおんなじように話せば良いのさ。そして、パニックになって、自分の感情を整理できないことをちゃんと話すんだ。そうすればお前さんを落ち着かせてくれて、それで、楽にしてくれることができるからな。僕らは余計な横槍入れたりすることはしないから、大丈夫だよ。さっきお前さんが言ったことを話せ。」
杉ちゃんがにこやかな顔をしてそう言うと、
「そうなのね。杉ちゃんありがとう。ちゃんと何をしたら良いのかも教えてくれて。私、もうなんにも分からなかった。ただ、苦しいのはわかったんだけど、それをどう表現していったら良いのかも分からなかったわ。だから、どうしたら良いのかちゃんと教えてくれてありがたかったわよ。ほんと、そういうところは、杉ちゃんって天才ね。」
と有紀は言うのであった。
「そうだねえ。まあ、みんなバカのひとつ覚えでできているんだけどね。」
杉ちゃんは、肩たたきをしながら、有紀ににこやかに言った。
それと同時に、カフェのドアががちゃんと開く音がして、白い十徳羽織を身に着けた影浦先生がやってきた。杉ちゃんがおーいここだぜと言って、手を挙げると、影浦先生はすぐ来てくれた。有紀はまだ緊張しているようであるが、つかえながらも自分の症状を話すことができた。会話みたいに話すことができたのはどうしてだろう。それができるようにさせてくれる人こそ、真の英雄だなとブッチャーは思ってしまうのだった。
「姉ちゃん、ありがとうな。」
思わずそう言ってしまった。
肩たたき 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます