「俺はお前の、ここになりたいと思ってる」


「ありがとう」

 目的地に到着し、礼を言ってふらつきながら車を降りた。

 頭がくらくらする。気持ち悪い。

 これは、脳死状態の体とリンクしているせいばかりではないと思う。

 事前の予告通り、父の運転は、一昔前のヤクザ並みに荒かった。

 発車してからはとても休息どころではなかったけれど、おかげで通常は車を使っても十分程度かかるところを、半分以上短縮できた。

 その代償なのだから、文句は言うまい。むしろ感謝すべきだ。

 動かない体にむちを打って数歩進んだ、そのとき、

「卓也」

 姉の気遣うような声が、呼ぶ。申し訳ないが、もはや振り返る余裕もない。

「――がんばって」

 背中越しでも、何かを呑み込んだのが分かった。

 ひょっとしたら、父と姉は、このまま自分の帰りを待っているつもりなのかもしれない。

 けどごめん。俺は二度とここへは戻れない。今日が終わったら、消えるから。

 ……なんてそんなこと、言えるはずもなくて。

 だから代わりに、精一杯片手を上げて応えた。

 車のドアが、ゆっくりと閉まる。同時に、一歩一歩、踏みしめる。

 痛みと雪のせいか、足の感覚はほとんど麻痺している。もう、まっすぐ歩けているかどうかも分からない。

 目指す場所は目の前だが、父も言っていたように、もう真夜中だ。当然、正面からは入れない。裏口を、探さないと。

 たった数メートルが、とてつもなく遠い。一歩が、鉛のように重い。

 そのうち、吐き気すら込み上げてくる。

「うっ……なんかやばい。ゲロりそう……」

 ――ゲロなんか吐いてる場合じゃないよ。あと十五分もないんだからっ!

 容赦なく尻を叩く母の声。

 ――ここまできて、諦めるのかい?

「……冗談じゃねぇ」

 母に発破はっぱをかけられた俺は、最後の力を振り絞って走りだす。

 お願いだ。俺はどうなってもいい。

 地獄だろうと天国だろうと行くし、命だって心臓だって、なんだって差し出すから。

 だから、頼むから、間に合ってくれ……!


 *


 雪を見るのなんて、いつ以来だろう。

 私は病室の厚い布団に包まって、白く曇ったガラス窓を人差し指でそっと撫でた。

 触れた指先が、痛むように冷たい。

 今夜はまだ一睡もしていなかった。暗くて時計を確認できないが、そろそろ日付が変わる頃だろうか。

 年明けだし、まあいいか、と思う。

 ベッドから抜け出して騒いでいるわけでもないのだから、このままおとなしくしていれば、巡回の看護師に気づかれることもないだろう。

 こうしていると、卓也と過ごした夜を思い出す。

 彼が初めて人間の姿になり、猫に戻る瞬間をこの目に焼きつけようと奮闘した春の夜。

 発作をめぐるいさかいの後、とりとめもない恋愛話をした夏の夜。

 彼の意外な一面が見えた秋の夜。

 そして――キスで想いを通わせた冬の夜。

 たくさんの思い出がよみがえってきて、ふいに泣きたいような気持ちが湧き上がってきたそのとき、ゆっくりと静かに、ドアの開く音が聞こえた。

 看護師だろうかと上半身だけで振り返って、目を見張り、反射的に飛び起きた。

「たく――」

 思わず叫びかけると、彼が「シーッ」というように唇の前に指を立てたので、はっと口をつぐんだ。

 彼は小さくうなずいて、忍び足でこちらに近づいてくる。

 今日は季節の変わり目ではないはずなのに、どうして人間の姿なのだろう。そもそも、どうやってここに?

 よく見ると、その足取りはふらついているように思えた。暗がりのせいではっきりとは分からないが、顔色もあまり優れない気がする。

 そう思った瞬間、力なく倒れかけた。

「あっ……」

 反射的に駆け寄ろうとすると、片手を伸ばして制する彼。

「大丈夫だ。ちょっと安心して気が抜けた、だけだから……」

 心なしか、呼吸も苦しそうだ。

 ほんとに大丈夫? と尋ねる前に引き寄せられた。今までと違い、私が彼の意思を汲んで寄り添うような曖昧さはなく、しっかりと抱きしめられている感覚。

 あぁ、彼は生きているんだ、と思った。

「卓也……だよね?」

 胸の中に身を委ねたままあらためて問うと、彼は「うん」と優しく答えた。

「今日、わりと元気そうじゃん」

「そうだね。なんか、卓也のほうが具合悪いんじゃない?」

 深刻になりすぎないよう、さらりと尋ねたら、

「俺は平気だよ。さっきまで死にかけてたけど、お前の顔見たら全部ふっ飛んだ」

 なんていきな受け答えをして、くせっ毛をいつくしむように撫でてくれる。

 しばらくされるがままになっていると、

「大事な話があるんだ」

 彼は手を止め、あらたまった口調で切り出した。秋の夜に、心臓のことを訊かれたときと似ている。

「信じられないかもしれないけど、今から話すのは映画の設定でも、どっかのおとぎ話でもない。本当のことなんだ。笑わずに聞いてくれるか?」

「私、ファンタジックな物事には慣れてるから」

 微笑交じりに答えると、彼は安心したように吐息を漏らし、体を離した。

 そして軽く屈んで目線を合わせ、こちらの胸にそっと手を置く。

「俺はお前の、ここになりたいと思ってる」

 当然その一言では理解できず、眼差しで詳細な説明を求めると、彼はベッドの傍らにひざまずき、ひとつひとつ言い聞かせるように話した。

 自分の元の体が、脳死状態でまだこの世にある。それを使えば、お前を助けられるかもしれない。その意思を周囲に伝えるために、一夜限りで肉体を取り戻したのだと。

「でも、そんなことしたら卓也はどうなっちゃうの? それに、ドナーになるって簡単なことじゃないんだよ?」

 いくら本人や家族に臓器を提供する意思があっても、血液型や体格をはじめとする様々な条件が患者と合致しなければ、ドナーにはなれないのだ。彼は本当に分かっているのだろうか。

 それに、私が生きたいと思えたのは、あなたがいたからこそなのに。

 取り乱して震える拳を、彼の手のひらが優しく包み込んだ。

「この姿に戻すとき、俺の母親も同じようなことを言ったよ。『あんたが心臓を捧げたところで、それがあの子のものになるかどうかは分からない』って」

 そう言って「でもさ、ふうか」と儚げに微笑む。

「その可能性は99パーセントかもしれないし、50パーセントかもしれないし、1パーセント以下かもしれない。それこそ誰にも分からないんだよ。ただ……」

 彼は雪がちらつく窓の外を遠い目で眺めながら、言った。

「100じゃないことは確かだけど、0じゃないことも確かだ」

 その言葉は、これまでにない重みとともに、私の心に届いた。

「それにもし、うまくいったらさ」

 彼は生真面目な表情を一変させて、無邪気な子供のように身を乗り出す。

「俺たち、死ぬまで一緒なんだぜ? それってすごいことだと思わないか?」

 たしかにその通りだ。提供された臓器は、移植された人間の中で働き続け、成長し続ける。

 私が彼を置き去りにしていくこともないし、彼に置き去りにされることもない。

 朽ち果てるその瞬間まで、ともに生き続けるのだ。

 大切な大切な、彼と。

「だから、俺は賭けてみたいんだよ。貧乏な村人が、待ち続けた王子様に出会うよりも、よっぽどあり得るこの奇跡にさ」

 気づいたら、うなずいていた。

 放置すれば、いずれ消える命。そんなものでちょっと夢見たくらいで、天罰は下らないはずだ。

 彼は白い歯を見せて満足そうにはにかみ、かと思えば「あ~あ……」と落胆したような声を出す。

「ほんとはさ、今から病院抜け出して、誰もいない場所で、お前とはしゃぎ回りたいところなんだけど。もう、時間がないみたいだ」

「何その少女漫画みたいな展開。卓也の発想って、ときどき古く――」

 後半の一言は聞こえなかったふりをして笑い飛ばそうとした。けれど、言い終わる前に塞がれる。

 あの夜の遠慮がちなものとは比べものにならないほど、激しくて熱いキスだった。

 苦しい。でもそれは、ちゃんと重なっているからだ。互いが生きて、呼吸をしているからだ。

「ぁ……ん……」

 途中、息が続かなくなって鳴くように声を漏らしても、彼は手加減してくれない。むしろ、またきつく抱き寄せられる。まるで自分の存在を焼きつけるかのように。

 もっと近づきたくて、彼の体に腕を回した。撫でた背中は、がっしりとしていて男らしい。

 あたたかなしずくが頬をつたう。自分の涙と、彼の涙が溶け合った。

 好き。大好き。愛してる。

 ありふれた言葉を、包み隠さない気持ちを、濃厚なキスで伝える。

 胸の内とはいえ、愛してる、なんて小恥ずかしい言葉を使う瞬間が訪れるとは思わなかった。

 心の片隅で羞恥を覚えている間にも、どんどん深くなる、

 あぁ――ずるい。初恋の人との最後のキスがこんなにも熱いなんて、こんなにも悲しいなんて、ずるい。絶対に忘れられなくなってしまう。

 苦しさをこれほどまでに幸せだと感じる瞬間は、きっとこの先どこにもない。


 どれくらいそうしていただろう。ほんの数分のようにも、途方もなく長い時間のようにも感じた。

 彼がようやく唇を離し、潤んだ瞳で切なげに微笑む。

「いるからな、ここに」

 そう囁いてから、もう一度こちらの胸に触れる。

 そのたしかなぬくもりに、

「卓也……!」

 いかないで、と叫ぼうとしたとき――遠くで除夜の鐘が鳴った。


 *


 真っ白な中にいた。

 ――お前さん、一番大事なことを伝えそびれたんじゃないのかい?

「わざとだよ。分かってるくせに」

 ――そうかい。

「寂しいけどさ。これはこれでよかったのかもな」

 ――どうして?

「あいつのことだから、俺のこと覚えてたら、楽しいときも、誰かを好きになったときも、ずっと引け目を感じて生きていくかもしれないだろ? そんなのは、俺も嫌だし」

 ――ったく、カッコよくなっちまって。

 母は呆れたように、でもどこか誇らしげに笑った。

 ――安心しな。あんたはきっと、天国に行けるさ。

「あ~、やだやだ。天国も地獄も行きたくねぇ。今日までの記憶持った状態で、そっくりそのまま生まれ変わりてぇ」

 そしたら真っ先に、君に会いに行くのに。

 ――せっかく褒めてやったのに、なに駄々こねてるんだい。

「なぁなぁ、母ちゃんは神様なんだろ? どうにかできねぇのかよ」

 ――バカ言うんじゃないよ。無理に決まってるだろぉ? 一回チャンスをもらえただけで儲けもんだってのに。転生のルールに文句があるんだったら、向こうに行ってから、もっと上の階級の神に申し立てるこった。あたしゃどうなっても知らないけどね。

 うなだれたかったけれど、もう体がなかった。

 ――そんなに落ち込まなくたって、いずれあの子もこっちに来るんだから。あんたが五十年ちょっと早く死んだだけのことじゃないか。

「そんな簡単に言うなよなぁ……」

 ――あ~もう。色ボケ男はほんとにめんどくさいねぇ。ほら、お迎えだよ。

 眩い光に包まれた。

 君が笑っている。

 俺は、この笑顔を守れただろうか。今にも消えてしまいそうな、泡のように儚かった君の命を、未来へつなぐことはできただろうか――

 君と過ごした日々。君が教えてくれた気持ち。全部、忘れないよ。もしも忘れてしまっても、いつかきっと、思い出すから。絶対に、心のどこかにはしまっておくから。

「頼んだぞ、俺の体」

 そんな一言を残して、俺は光の中へ溶けていった。

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