一夜限りの奇跡


 *


 まず向かったのは、もちろん我が家だった。

 家族を説得しない限りは、事が動きださない。

 灯りが消えている。どうやらふたりとも出かけているらしい。

 本当は直接会って話したかったけれど、侵入するにはこのほうが好都合だ。

 留守ならさすがに玄関は閉まっているだろうが、いつものごとく裏庭あたりから忍び込んで、記入したものをこっそり食卓にでも置いておけば……とそこまで考えて、重大なことに気づく。

 そもそも、その「記入するもの」を持っていないではないか。というか、あれってどこで手に入るものなのだろう。

 行き当たりばったりで無知な自分に呆れていると、

 ――もしかして、ドナーカードのことかい?

 母がズバリと言い当てる。

 ――それならたぶん大丈夫だよ。最近は保険証の裏なんかに記入欄が設けてあるみたいだから、自分の部屋でも探してみるといい。まだちゃんと葬式したわけでもないんだし、あんたの私物くらいどっかに保管されてるだろうさ。ダメならコンビニとか病院を当たるしかないけどね。

 母の言葉に一安心しつつ、ひとまず裏庭に回って家の中へ入ると、二階にある自室へ急いだ。

 保険証は財布に入れて持ち歩いていたはずだ。母が言うように、保管されている可能性が高いのはそこだろう。

 息を切らしながら自室のドアを開けると、中はちょっと驚くほどきれいに整頓されていた。亜沙美が小まめに掃除してくれているのかもしれない。

 生前はほとんど使わなかった勉強机に祈るような気持ちで歩み寄り、引き出しを開けると、

「……あった」

 若干押し潰されてはいるものの、愛用していた財布は、画面のひび割れたスマホと並んですぐに顔を見せてくれた。

 管理をおこたらずにとっておいてくれた家族に感謝しながら、保険証を取り出す。こちらも折れ曲がったりしわがついたりしていたが、原形はとどめていた。

 そして裏面には――願っていたものが。

 あふれだしそうな感情を抑えて机上のペン立てから筆記用具を抜き取り、記入を済ませる。

 家族の想いを考えると、心臓だけにしておこうか悩んだけれど、結局すべての臓器に丸をした。これもきっと、誰かのためになるから。

 最後に自分の名前を署名する。

 瀬戸卓也。

 十八年間付き合ってきたこの名前とも、今日でお別れだ。まさか、自分の名前にこんなにも感慨深くなる日が来るだなんて。

 ――あと三十分だよ。

 母の声に急かされて、とっさに保険証をジーンズのポケットに突っ込んで部屋を飛び出す。

 島谷家から我が家までは呼吸を忘れるほどの猛ダッシュで、かなり時間を短縮したはずだが、もうそんなに経ってしまったのか。

 廊下を滑る勢いで食堂室まで駆け戻り――息を詰めた。人の気配がしたからだ。

 出入り口付近の壁に背を預けてしゃがみ込み、慎重に中の様子をうかがう。そこには、あたたかそうな冬着を着込んだ、父と姉の姿があった。いつの間にか帰ってきたらしい。

「腹割って話し合うのはいいけどさ。飲みすぎて暴れないでよ?」

 コートを脱ぎながら忠告する亜沙美に対し、父は小さなビニール袋を椅子の上に置くと黙ってうなずいた。今日はタオルでなく、ニット帽をかぶっている。

 亜沙美はコートを持ったままやれやれというように浅いため息をつき、壁にかけられたカレンダーの前で立ち止まった。

「もう一年なんだね……」

 悲しいような、寂しいようなその一言で、空気が変わる。

 そうか。一年前の今日、おそらくこの時間帯に、俺は……

「やだなぁ。時間経つの早すぎでしょ。私たちまだ、あのときから全然進めてないのに……」

 亜沙美は震えた声で言って、涙をごまかすようにフッと濡れ気味の吐息を漏らした。

 父はただ立ち尽くし、そんな娘の後ろ姿を考え込むようにじっと見つめていたが、数秒すると、何かに突き動かされたようにビニール袋から缶ビールを一本取り出す。

 そしてプルタブを開け、喉を鳴らしながら一気に呷ると、

「申し訳なかった!」

 亜沙美の背中に向かって、いつか取り乱したときに負けない声量で謝罪し、両手と形のいい頭を床につけた。

「えっ……ちょ、お父さん?」

 困惑しきった様子で振り返った亜沙美の足もとに、空のビール缶が転がる。

「何やって――」

「俺が大人げなかった! すまなかった!」

 ひたすら謝り倒す父。

「ちょっと、こんな夜中に大声出さな――きゃ!」

 父に歩み寄ろうとした亜沙美が缶につまずいてつんのめる。両手をついて支えようとしたものの間に合わなかったらしく、鈍い衝突音が聞こえた。

「ったぁ~……」

 おのずとできあがった、両者土下座の図。

 こんなもの、笑うなというほうが無理な話である。

 今だけは幽霊でいたかったと思いながら、必死に声を殺していたが、ついにこらえきれず噴き出してしまった。

 当然、ふたりは異変に気づいて辺りを見渡す。

「誰かいるの……?」

 警戒したような姉の呟きに、俺は立ち上がって、

「よっ!」

 出入り口からひょっこり顔を覗かせた。

 ふたりはこちらを振り向いた瞬間、同時に息を呑んだ。

「黙って帰ろうと思ったけど無理だったわ。なんだよ、今のショートコント」

 肩を震わせながら指摘した俺に、ふたりははっとしたように起き上がったが、表情は強張ったままだ。

「もう酔いが回っちまったのか……?」

「違うと思う。ひとくちも飲んでない私にも見えてるから……」

 放心状態で口々にこぼすふたりに、俺はまた噴き出してから、ゆったりとした歩調で距離を詰める。

 そして目の前で立ち止まると、

「ほい。俺の意思」

 あっけらかんと言って、ポケットから保険証を取り出した。もちろん、裏面を表にして。

 まだ状況を把握しきれていない父が、どぎまぎしながら受け取った。

「これで一件落着、ってことには……ならねぇか」

 俺は苦笑して、頭の後ろを掻きむしる。

「じゃあ、ちょっと急いでるから」

 立ち去ろうと背を向けたが、踏み出せなかった。

「……ごめんな。俺、ほんっと大バカ野郎で」

 ふたりは何も言わない。どんな顔をしているかも分からない。

「それはさ、俺みたいなバカでもできる、最後の悪あがきなんだ。だからさ、前向きに考えてみてくれよ……」

 そこで、やっと足が動いた。

「卓也ッ……!」

 父の声がはっきり届いたけれど、聞こえなかったことにして突っ走った。

 振り返ったら、抱きしめられたりしたら、きっと戻れなくなる。

 俺のゴールは、ここじゃない。

 身を切り裂くような思いで、生まれ育った我が家に本当の別れを告げた。

 玄関の開閉音がむなしく響いた後、姉が「お酒、もういらないね……」と泣きながら笑ったことも知らずに。


 体が痛い。思うように動かない。息が苦しい。

 これが「脳死状態とのリンク」なるものなのだろうか。

「お……っと」

 足がうまく上がらず、ちょっとした段差にもつまずいてしまう。転倒しそうになった体をどうにか立て直す。倒れれば、もう立ち上がれない気がして。

 ――大丈夫かい?

「ああ……それより、あと何分だ?」

 俺は、肩で息をつきながら、母に尋ねた。荒い呼吸に合わせて、白いもやが夜の闇に浮かんでは消えていく。

 ――もうすぐ二十分を切るよ。

「やばいな……」

 ふうかの病院はここからそう遠くないはずだ。両親の会話から推測しただけなので確信は持てないが、病室も把握している。ヤンキー時代に似たような悪巧みを数えきれないほどしたから、夜の院内に忍び込むことも容易だろう。けれど、徒歩では確実に間に合わない。タクシーをつかまえるべきか……

 そんなことを考えながら再び走りだそうとして、気づいた。

「足が、動かねぇ……」

 一瞬でも立ち止まったのが運の尽きだったか、辛うじて胴体を支えているそれは、寒さと疲労によって小刻みに震え、立っているだけでも褒めてくれと訴えてくる。

「あ……」

 さらには、諦めろと告げるかのように、空から純白の結晶が降りてきた。

 ――雪だね。

 心なしか驚きを滲ませて、母が呟く。

 はらはらと舞い落ちる様は切なく美しいけれど、疲労困憊こんぱいの俺にとっては、行く手をはばむ悪魔に他ならない。

「くっそ……動けよッ!」

 たまらず叫ぶ。

 夢を絶たれて、母が死んで。

 世界なんて、理不尽で悲しくて、ままならないことばかりで、くだらないと思っていた。

 でも、今は違う。

 自分の気持ち次第で、隣にいる存在次第で、見える景色は大きく変わるんだって、君が教えてくれたから。

 君に出逢って、大嫌いだった世界をちょっとだけ好きになれたんだ――

 だから俺は、いかなきゃいけない。これから何十年と続くはずの、君の未来を守るために。

 なのに……

「こんなところでっ……!」

 悔しさに歯を食いしばったそのとき、背後からタイヤが踏みつけるような音が聞こえた。

 振り返ると、ヘッドライトをつけた車が目の前で停車する。運転席と助手席から降りてきたのは――父と姉だ。

「乗れ、卓也!」

「どこ行こうとしてるのか知らないけど、協力するから!」

 とたん、空気が抜けた風船のように崩れ落ちた。まだひざが笑っている。

「ハッ、ストーカーかよ……」

 無意識に漏れた声も、苦笑交じりの情けないものだった。

「おっ、おいっ!」

「大丈夫!?」

 ふたりそろって駆け寄ってくると、姉が片手に持っていた毛布で体をくるんでくれる。そのまま肩を貸すと、一緒に後部座席に乗り込んだ。

「ひどい顔。……ちょっと休んでなさい」

 その言葉に甘え、姉のひざを枕にして横たわる。毛布のやわらかな感触と、人のぬくもりが、冷えて疲れた体に心地いい。車内は暖房も効いている。

 彼らが来てくれて本当によかった。でなければ、間に合わないどころか、力尽きてあの場で凍え死んでいたかもしれない。

 つかの間の休息にほっと胸を撫でおろし、ひとつ深く息を吐いたとき、父が運転席に戻ってきた。

「それで、どこへ向かえばいいんだ?」

 尋ねられ、ふうかが入院している病院の名前を告げる。

「病院? なんでまた……しかもこんな時間――」

「悪い。詳しく説明してる暇はないんだ。とにかく急いでくれ」

 遮って言うと、父はミラー越しにじっとこちらを見つめた。

「……入る手立てはあるのか?」

 その物言いと質問は、まさに経験者のものだ。どうやら、俺の悪ガキぶりは、この人から受け継いだらしい。

「ま、なんとかなんだろ。っていうか、なんとかする。俺だし」

 あえて軽々しく答えると、父の表情が凛々しくなり、瞳に闘志のようなものが宿った。

「分かった。お望み通りにしてやるよ。ただし急ぐぶん、乗り心地は保証しねぇからな」

 父らしい返答に、ふっと含み笑いを漏らし、

「りょーかい」

 軽い口調を崩さず返す。

 父がハンドルを握ったとき、ふいに背中ですすり泣きが聞こえた。

「……泣くなよ」

 言いながらも、この状況でそれは無理か、と苦笑する。

「ねぇ卓也。これって夢なの……?」

 涙に濡れて震えた、姉の問いかけ。

「うーん、夢っていうよりは……一夜限りの奇跡、ってとこかな」

 素直に答えた。

 そう。夢なんてむなしいものじゃない。

 信じられないかもしれないけど、俺が今ここにいることは、紛れもない事実だ。

「亜沙美。メソメソしてねぇでしっかりつかまってろ。じゃねぇと吹っ飛ばされるぞ」

 父のぶっきらぼうな優しさに、姉は目尻を拭うと、力強くうなずいた。

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