――本当に、それでもいいのかい?


 *


 陽が傾き始めた帰り道を歩きながら、考えていた。

 ――本人の意思を尊重してあげるのが、一番かなって思うんだ。

 姉の言葉が、脳裏にこびりついている。

 ――それができないから困ってるんだけどね。

 いや、なんとかできるかもしれない。少なくとも俺の意思は、はっきりしているのだから。

 問題は、それをどうやって周囲に伝えるか、ということだ。生前にドナーカードを書き残しておかなかった自分を呪いたくなるが、毎日をただゴミ箱に捨てるように生きていたあの頃は、まさかこんな日が来るなんて夢にも思っていなかったのだからしかたない。

 猫の姿ではそもそも意思の疎通をはかることが困難だし、春まで待って人間の姿に戻ったところで、しょせんは幽霊だからペンすら握れないのだ。誰かに協力してもらおうにも、まずは自分の姿を認識できる人間を探し、打ち解け、事情を説明し……といくつもの段階を踏む上に、それらすべてを二十四時間以内にやりとげなければならない。

 不可能ではないかもしれないが、立冬の夜の別れ際、ふうかはたしか「来年の春はここにいられるか分からない」と言った。一刻を争う状況の中では、効率的な手段とは言いがたいだろう。

 もしくは、猫の姿だって構わない。姉ちゃんと会話ができればいいのに。

 地団駄を踏みたいような気持ちでそう思うが、考えたところでもちろん叶うわけがない。言葉にするのは簡単だけれど、そんなにうまくいかないのが現実というものである。

 やはり、亜沙美は亜沙美で頑張ってもらうしかなさそうだ。

 考えろ、考えるんだ。きっと、何かいい方法があるはず。

 先の見えない暗闇をがむしゃらに掻き分けるような気持ちで、思考をフル回転させていると、

 ――お困りのようだね。

 どこからか、懐かしい声が響いてきた。

 この声は、もしや――

「母ちゃん……?」

 驚いて夕空を見上げれば、姿の見えない母は楽しそうにふふっと笑う。

 ――ずいぶんと難しく考えてるみたいだけど、要はあんたがちゃんとした人間の姿に戻ればいいわけだろ? そんなこと、私の手にかかればお茶の子さいさいだよ。

「本当か!?」

 ――ああ。今の私は神みたいなもんだからね。あんまりほいほい手を貸すのもどうかと思うけど、今回ばっかりはさすがに八方塞がりだ。あんたが本気で望むなら、協力してやらないこともないよ。

「だったら戻してくれ、今すぐに!」

 食らいつくように返すと、

 ――けどねぇ、お前さん。

 母はたしなめるように言う。

 ――自分の存在がきれいさっぱりなくなるとしても、その決意が揺らがない自信はあるかい?

「……? どういう意味だ」

 尋ねても、

 ――そのままの意味さ。

 答えにならないオウム返しをされただけだった。

 ――そうだねぇ……今夜十時頃、詳しい説明に来てやるよ。答えを出すのはそれからにしな。

「なんでだよ」

 ――重大な決断をするときは、ちょっと冷静になる時間を作ったほうがいい。それにほら、恋は盲目って言うじゃないか。それじゃ、また後でね。

「おいっ、ちょ、待てって!」

 あわてて叫んだけれど、もう答える声はなかった。


 今年最後の夜。

 俺は、暗く静まり返った寝室のベッドで、窓の外を眺めていた。寒空には、点々と星が瞬いている。

 そして傍らには、憔悴した様子で眠るふうかの母親。

 今日の母親の精神状態は最悪だったらしく、大晦日だというのに夕食時には出来合いのコンビニ弁当や総菜が寂しく並び、数口つまんで九時前にはベッドに入ってしまった。

 まあ、一年中キャットフードが主食の俺には夕食のメニューなんてさほど関係のないことだし、大事な娘が独りで闘病している中、のん気に年の瀬を祝う気分にはなれなかったのだろうけれど。

 最近は猫好きの母親にサービスして、一緒に寝てやったりするのだ。今日は特に心配だったから、入眠するまで腕の中で寄り添っていた。

「ふうか……」

 眠りが浅いのか、それとも寝言か、彼女はふいに、目を閉じたまま弱々しく娘の名前を呼ぶ。

 カーテンの隙間から差し込む夜の明かりに照らされたせいか、その目尻はかすかに潤んでいるように見えた。

 普段からちょっと神経質で過敏なところはあるけれど、それも娘を大切に想うがゆえなのだろう。たぶん、うまくバランスが取れないだけだ。

 壁の時計を見やれば、午後十時前。

 さて、そろそろ行かなくては。

 ひとりにさせるのは少々不安だが、今日は父親も泊まっていくようだし、母親のことは任せておくとしよう。

 ――大丈夫。俺が助けるから。きっと。

 俺は心の中で母親にそう呟いて、静かにベッドから抜け出した。


 ――遅い。

 それからどれだけ子供部屋で待ってみても、母が現れる気配はなかった。

 自分から十時に来ると言っておいて、もう三十分以上も過ぎている。

 ひょっとして、夕方に聞いた母の声は、切羽詰まったあまりに自分の脳が生み出した幻聴だったのだろうか。

 そんな不安が押し寄せてきたとき、

 ――悪い悪い、待たせたね。

 言葉のわりに、まったく反省の色が感じられない謝罪が響いてきた。

「大遅刻だぞ」

 ――いやぁ、神様は忙しいんだよ。

 俺は呆れながら天井を睨みつける。

 ――で、時間もないことだからさっそく本題に入るけど。

 逃げたな、こいつ。

 ――あんたの願いは、一緒に暮らしてた女の子を助けるために、脳死になった自分の心臓を提供すること。それを周囲に知らせるために人間に戻りたい、ってことでいいね?

「……ああ」

 えらく詳細に知っているじゃないかと言いたくなったが、また「神様だからねぇ」の一言で片づけられそうな気がしたのでやめておく。無駄なことに時間を割いている暇はない。

 ――先に言っとくけど、あんたが心臓を捧げたところで、それがあの子のものになるかどうかは分からないよ。人間に戻してやることは簡単でも、そこまではあたしの手が及ぶ範囲じゃないからね。

「分かってる」

 それでも、あんなみすぼらしい姿で誰かを苦しめ続けるよりは、よっぽどマシだ。

 ――それと、条件があるんだ。

 母は、まるで試すように、ねっとりとした口調で切り出した。

「条件?」

 ――本来、死期を迎えた魂を生前の姿に戻すなんてことは、転生のルールに反するのさ。つまり、ルール違反をしたあんたは、この世から追放されて、きれいさっぱりなくなっちまう。

「だからその、きれいさっぱりなくなる、ってどういうことだよ」

 夕方と同じ問いを投げかける。

 ――言ってるだろ? そのままさ。その願いを叶える代わりに、あんたという存在は跡形もなく消されて、あの世に強制連行される。もちろん、猫としてのお前も。どこに逝くかは分からない。一度目の人生もろくな終わり方をしてないから、呆れられて地獄行きかもしれないね。

「消される……強制連行……」

 呟きながら、いつか見た地獄の光景が思い出される。血のような液体の中で、苦しげに呻く、人の形をしたもの。

 母の言葉をじっくり噛み砕いていると、さらに追い討ちをかけるようにこう続けられた。

 ――それでもどうしてもって言うなら、あたしから個人的にもうひとつペナルティーを課さなきゃいけない。そうしないと、あたしまで罰せられる羽目になるからね。

「薄情なんだな」

 ――フン。あたしはね、あんたと違って二度も死ぬのはごめんなんだよ。今は向こうでのんびりやってんだから。

 まったく悪びれず答えた母は、

 ――さーて、どうしようか。

 楽しそうに思案し始める。俺の神様は本当に性悪だったようだ。

 ――そうだねぇ、あんたが助けたいっていうその女の子から、お前との記憶を消し去るってのはどうだい? ドラマチックだろ? 念のために、その子の家族も対象にしようか。

 顔が見えないので確認はできないが、さぞかし意地の悪い笑みを浮かべていることだろう。もう返す言葉もない。

 そうしよう、うん、そうしよう。なんて陽気に繰り返した後、

 ――最後にもう一度だけ訊くよ。

 と母は告げる。

 ――本当に、それでもいいのかい?

「体は? 眠ってる俺の体はどうなる?」

 煽るような問いかけをものともせず、俺は間髪入れずに尋ねた。

 ――あぁ、それなら心配いらないよ。

 どこか拍子抜けしたような声。

 ――あんたの魂が抜け出した時点で、あれはもう単なる抜け殻だ。たしかに、同じ肉体がふたつあるっていう奇妙なことにはなるけど、今回の違反とは無関係さ。

「なら何も問題ない。さっさとやってくれ」

 何も問題ない、というのは、少しばかり見栄を張った。

 姿と記憶がうんぬんと告げられた今の率直な感想は、なんじゃそのSF映画にありそうなペナルティーは、といったところだ。

 ふうかの中から自分との思い出が消えてしまうかと思うと、胸の奥をぎゅっと掴まれたような苦しさに見舞われる。

 けれど、考える時間も悩む時間も、もう散々与えてもらったはずだ。今さらこんなところで立ち止まってなどいられない。

「早く」

 催促する息子に対し、母は、何を言っても無駄みたいだねぇ、とでも言いたげにため息をついた。

 ――……分かったよ。目をつむって、その場にじっとしな。

 指示に従うと、数秒後、焼けつくような激痛が全身を襲った。

「っっ――!」

 この痛み、以前にもどこかで……

 そうか、あのときだ。三途の川に導かれる前、最期に感じた痛みと同じだ。

 ――はい、完了。

 お気楽そうな母のひと声で、どうにかこうにか目を開ける。

「こんなに……い、たい、なんて、聞いて……ねぇぞ」

 息絶え絶えになりながら、一言物申すと、

 ――そりゃまあ、言ってなかったからねぇ。

 なんて、けたけた笑いが返ってきた。完全に面白がっている。

 すでに死んでいるはずの母に殺意を湧き上がらせるうち、徐々に全身が形作られていくのが分かった。

 足先から胴体、胴体から手先、そして頭。

 両手を開いて閉じ、一歩踏み出してみる。

 ちゃんと動く。今までとは違い、しっかり骨と筋肉に支えられている感覚。

 ――今から一時間だね。

 驚きで震える俺をよそに、母は冷静な口調で告げる。

 ――リミット的にも、あんたの体力的にも、一時間が限界だ。

 壁の時計は十一時を指していた。ちょうど年明けがタイムリミットというわけか。

 ――多少なりとも脳死状態の体とリンクすることになるから、時間が経つにつれてきつくなるだろうけど、途中でへこたれるんじゃないよ。

「……おう」

 俺は力強く答えると、自分の足で駆け出した。

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