行こう


 *


 ――――!

 昼下がり、一度散策から戻って、常備されているキャットフードで腹ごしらえをしていた俺は、突然響いた不快な高音に飛び上がった。

 後ろを振り返ると、ふうかの母親がしゃがみ込んで、何やら床に散らばった白い破片を拾い集めている。さっきまで水の音が聞こえていた気がするから、洗い物でもしていて食器を割ってしまったのだろうか。

 ――おいおい、マジか。

 ふうかが入院してからというもの、母親はずっとこんな調子で、裁縫中に自分の指を針で刺したり、ぼーっとしていて料理を焦がしたり……漫画でよく見るような小さなミスを繰り返していた。近頃はパートにも見舞いにもあまり行っていないようだ。

「どうした――あっ」

 物音を聞きつけて奥の部屋から顔を覗かせた父親が、事態を把握し、あわてて駆け寄る。

 情緒不安定な妻を気遣ってか、父親はこの家に居座ることが多くなった。最近では連泊することもめずらしくない。

「ごめんなさい……」

 破片を拾い上げながら、蚊の鳴くような声で謝罪した母親に、父親は怪訝な顔をする。

「私、あなたのこと、いいように使ってばっかりね……」

「これは、僕が勝手にやってることだから」

 父親は物静かに答え、

「ふうか、今の私たちを見たら『私なんていないほうがいいんだ』って思うかしらね……思うわよね、私だって思うもの」

 母親の、強引に説得させるような、暗く疲れ果てた呟きには、切なげに、でもきっぱりと首を横に振った。

「ふうかは、そんな子じゃないよ」

 すると、母親は耐え兼ねたように嗚咽を漏らす。

「ごめ……ごめんなさい……私が悪いの。私があの子のこと、ちゃんと元気に産んであげられなかったから……」

 父親は手を止める。

 てっきり泣き崩れる肩を優しく抱き寄せるのかと思ったが、その反応は意外なものだった。

「……なんだよ、ちゃんとって」

 そう返した声色には、怒りすら感じられる。

「悲しむなとも、無理に笑えとも言わない。ただ、今一番辛いのは、僕らじゃなくてふうかだ。それだけは忘れちゃいけないよ」

 きっぱりと断言する彼の瞳には、普段はなかなか見せない、力強い何かが宿っていた。


「はぁ~、ちょっと言いすぎちゃったかなぁ……」

 父親は奥の部屋に戻ると、後ろをついてきた俺を抱き上げて仕事用の回転椅子に座り、うなだれて重々しいため息をついた。

 ちょっと気にかかったから様子を見にきたのだけれど、どうやら正解だったようだ。

「そりゃ、辛いのは分かるよ。もちろん僕だって辛いさ。大事な一人娘が大変な思いをしてるんだから、平気なわけないだろ? だけど、悲観したってふうかの病気が治るわけじゃない。僕たち親が挫けてしまったら、ふうかは誰を頼ればいい? 弱音を吐いていいのは、闘ってる本人だけだ。思い込みでも言霊でも、なんでもいい。僕らはとにかく信じてあげないと。それしかできないんだから。……なんてこんな精神論、暑苦しいと思うかい? ウィン」

 頭を撫でながら問われ、

 ――暑苦しいなんて、そんなこと。

 否定するつもりで、抑揚をつけてひと鳴きする。

 どうやら今日の彼は、やけに白熱モードらしい。

 そうだ。嘆いていたって何も変わらない。悲劇に酔っている暇があったら、一秒でも早く動きださなければ。自分にできることがあるかもしれないならば、なおさら。

 行こう。

 俺は、父親のひざから飛び降りると、目の前のサッシをカリカリと引っ掻いた。

「おっ、午後のパトロールだね?」

 気づいた父親が、快く開けてくれる。話の分かる人だ。

「行っておいで」

 俺は礼の代わりに短く鳴き、父親のあたたかな眼差しに見送られながら、再び外へ駆け出した。


 さすがにもう来ないかと思っていたのに、これで三度目だ。

 俺は華麗にジャンプして塀を飛び超え、難なく瀬戸家の裏庭に侵入した。これは、猫の姿だからこそなせる業だ。

 今日ここに来たのは、本格的な行動に出る前に、家族の気持ちをあらためて知るためだった。

 いくらウィン――卓也である俺の意思がかたまりつつあっても、家族がそれを拒否したら意味がない。だから、どれくらい勝算があるのか、事前に確かめておきたかったのだ。

 それに、正直なところ、今ひとつ踏み切れない自分の背中を押してくれる言葉がほしい、というのもあった。

 最後に会ってからこの数ヶ月で、父と姉にどんな心境の変化があったかは知りようもないし、こんなことをしたところで事が良い方向に転ぶ保証なんてないけれど、何かせずにはいられなかった。

 ――よしっ。

 覚悟を決めたとき、まるで待っていたかのように食堂室に面したガラス窓が開き、

「あら、猫」

 洗濯物らしき衣類を抱えた亜沙美と目が合う。

 いつもならここで「侵入したはいいがどうするべきか」「いつもそんなに都合よくふたりが現れるとも限らないし……」などとあれこれ考えあぐねるのだが、今日はラッキーなことにその手間が省かれた。

 このチャンスを逃してなるものかと、とりあえずかわいらしい声でひと鳴きしてみせる。すると、姉はまんまと気を良くしたらしく、

「おいで」

 甘い声でそう言って、その場に座り込み、洗濯物を傍らに置く。

 ――フッ、チョロいな姉ちゃん。

 俺は内心で薄ら笑いを浮かべながら走り寄っていって、そのままひざの上に飛び乗った。

 催促するように背中を見せて寝そべると、

「人懐こいのね」

 なんて言って微笑み、毛並みにそうようにゆっくりと撫で始める。昔飼っていたとはいえ、今は動物に触れる機会があまりないのか、その手つきはどこかぎこちない。

「ねぇ、猫ちゃん。死んじゃった人の声とか気持ちって、どうして聞けないんだろうね」

 偶然とは思えない一言に、耳を疑った。

「このハイテクなご時世、そんな機械のひとつやふたつ、あってもいいと思わない?」

 ――まさか、俺だって分かってる?

 現実離れした錯覚に陥りかけるが、すぐに打ち消した。

 きっと、もう精一杯なのだ。

 頑固で一点張りの父と、容赦ない現実。

 積もり積もった感情のけ口を見つけられなくて、通りすがりの猫に何気なくこぼしてしまった。そんなところだろう。

 眠り続ける弟の今後をめぐる問題は、今や、姉の頭の中を埋め尽くしてしまっているのかもしれない。そう思うと、申し訳なさが込み上げた。

「そのままの姿でいてほしいとか、誰かの一部になってほしいとか、考え方は人それぞれだろうけどさ。そういうのって、どんなに相手のことを想ってても、結局は自分の一意見にすぎないのよ。冷たい言い方かもしれないけど」

 だから、と気持ちを切り替えるように顔を上げた姉につられて見上げた冬空は、寒さに負けじと、凛と澄み渡った青色をしている。

「やっぱり本人の意思を尊重してあげるのが、一番かなって思うんだ。だって、他の誰でもない、その人の命なんだもの」

 あと一歩を妨げていた何かが、音を立てて外れた気がした。

 ――卓也はどうしたいの?

 最後の最後に、そう問われている気がした。――答えはもう決まっている。

 姉だけじゃない。父も、ふうかも、彼女の両親も、俺だって。みんなとっくに限界なのだ。

 ヒーローぶるわけではないけれど、この中で現状を打破できる可能性を持っているのは、おそらく自分だけで。

 だから、家族が本当に、心からそう思ってくれるのなら、悩むことは何もない。

 父の主張もあるし、姉にはもうひと頑張りしてもらわなくてはいけないかもしれないが。

「まぁ、それができないから困ってるんだけどね。ほんとに、あのバカは」

 亜沙美は吐き捨てるように言って、大きく背伸びをした。

 そしてその後、何かに気づいて「あっ」と声を上げる。

「あなた、よく見たら首輪してるじゃない」

 ――今さらかい。

「しかもこの住所、うちの近くよ。分かった。臆病者でテリトリー狭いんでしょ?」

 ――うるせぇな、違げぇよ。

 反射的に反論してしまったけれど、言われてみれば、ここより遠い場所へは行ったことがない気がする。間違ってもビビリではないけどっ!

「へぇ。ウィン、か。いい名前ね」

 それだけ言うと、亜沙美は満足したのか「さて、愚痴聞いてくれてありがとね」と俺を地面におろした。

「早くおうちに帰りなさいな。――きっと、あなたの家族が待ってるだろうから」

 俺は姉を振り返り、小さくひと鳴きする。

 ――苦労かけてごめんな。ありがと。姉ちゃん。

 これでやっと、前へ進めそうだ。

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