幸せ


 *


 麦わら帽子に、紺のワンピース姿のふうかが振り返った。

「卓也! 何してるの? はやくはやく!」

 三つ編みのおさげが、ふわりと弧を描く。

 辺りを見渡せば、たくさんの家族連れやカップルが行き交い、広い敷地を、大きなアトラクションの数々が埋め尽くしていた。

 頭上には、すこんと抜けるような青空が広がっている。

「私、あれ乗りたい!」

 ふうかの指さすほうを見ると、竜のようにくねったり曲がったりしながらレール上を走る乗り物の上で、人々が叫び声を上げていた。ジェットコースターだ。

「え、でもお前、体は……」

「大丈夫だよ? もう元気になったから」

 彼女は、今さらなに言ってるの? とでも言いたげに、きょとんと首を傾げた。

「ほらっ、行こ!」

 腕を掴まれて走りだす。

 心地よい風が髪を撫でる。

 気持ちも一緒に軽くなる。

 ――あぁ、なんだ。そっか。そうだったっけ?

 今まで背負っていた心の荷物を、全部放ったような気分だった。

 ジェットコースターに揺られて、心臓がひっくり返りそうな感覚を味わいながら、思いのままに叫んだ。

 その後は、ふうかと分け合って、ソフトクリームを食べた。これまで食べた中で一番冷たくて、一番甘いソフトクリーム。

 ティーカップでぐるぐる回った。調子に乗って回しすぎて、しばらく気持ち悪かった。そんな俺に、ふうかは心配そうにペットボトルの水を差し出してくれた。

 お化け屋敷でぴったりと寄り添い合った。彼女は意外と肝が据わっていて、俺のほうが叫んだ。

 卓也はビビりだねぇ、ってからかうから、両手で思いきり頬を引っ張ってやった。

 彼女が引っ張り返して、ふたりで笑い合った。

 互いの指を絡ませ、しっかり手をつないで歩いた。

 幸せだ。あまりにも幸せだ。

 夢かな? 夢じゃないよな?

 夢だったら、目覚めなくていいや。ずっとこのままでいいや。このままがいいや。

 死んでしまってもいい。むしろ死んでしまいたいくらいだ。

 君がこうやってそばで笑っていてくれるのなら、もうなーんにもいらないから。なーんにも怖くないから。


 観覧車の中で肩を並べて、沈みゆく夕陽を眺めていた。

 薄桃色の空。力強くも優しげに輝くオレンジ。

「きれいだねぇ……」

 隣で、無邪気な表情をして、うっとりと漏らすふうか。その横顔がかわいくて、頬にそっと口づける。

「……もう」

 彼女はちょっと怒ったように頬を赤らめると、同じようにキスを返してくれた。

 夕陽と同じ色を宿した瞳で、しばらく何も言わずにこちらを見つめていたかと思うと、すっと立ち上がり、窓のほうへ歩み寄る。

 そして、一度短く息を吐いて振り返ると、言った。

「私、そろそろいかなくちゃ」

「えっ……?」

 彼女は哀しげな微笑みを浮かべ、小さく手を振る。

「バイバイ、卓也」

「ちょっと待っ――」

 別れの言葉を最後に、辺りを真っ暗な闇が呑み込んだ。

 それでも俺は抗う。ふうか、ふうかー、と何度も彼女の名前を呼び、闇の中を突き進んでいく。負けるものかと、そう思いながら。

 すると、一筋の光が見えた。

 必死に追いかけて、手を伸ばす。

 でも、どうしても、届かない。

 あともう少し、もう少し、なのに――


 *


 目を開けると、かたい絨毯の上だった。

 ――なんか、感覚やら味覚やらまで、やけにリアルな夢だったな。ベタだったけど。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、起き上がって辺りを見渡す。

 見慣れた子供部屋。けれど人の姿はなく、あたたかな布団も敷かれていない。人気がないというだけで、部屋の印象はがらりと変わるものだ。この部屋は、もうずいぶん長い間、息をしていない。

 外を見やれば、太陽が自慢げに、今年最後の朝の訪れを知らせていた。辺りはどこもかしこも活気に満ちているのに、ここだけ寂れた路地裏のよう。

 そこでふと、あんな夢を見たということは、ひょっとして……と窓ガラスに映る自分の姿を確認してみたけれど、大きな黄色い瞳をした、黒猫のままだった。

 幸せなひととき。それを呑み込む暗闇。届かない光。

 ふうかがいなくなって一ヶ月――いや、あと一週間もすれば二ヶ月が経つ。

 俺は、ひとり寂しく、ため息にならないため息をついた。

 ――なぁ、神様。もう信じないなんて言わないからさ。変な夢見せるのやめてくんねぇかな。俺だって色々考えてんだから。

 むなしい心の声は、やっぱり誰に届くはずもなかった。


 *


「今年も今日で終わり、か……」

 私はパジャマ姿のまま、毎日代わり映えしない殺風景な病室で、やっぱり代わり映えしない外の景色を眺めながら、ひとり呟く。時が経つのはあっという間だ。

 立冬の日を最後に、体調は完全に逆戻りしてしまった。最近は何を食べても体が受け付けないので、毎日点滴の世話になっている。

 といっても、今日は体を起こしていられるし、吐き気もないのでかなりマシなほうだ。

 それまでの苦しみが嘘のように消え去った、つかの間の幸福。あれは、これから待ち構えている試練に立ち向かうために神様がくれた、ささやかなエールでありプレゼントだったのかもしれない。

 臓器移植は人の死を待つことだ、とよく言われる。

 だったら私は生きなくていい。誰かに自慢できるような取り柄も、人望もないのだ。こんな私に心臓を渡すなんてもったいない。家族には辛い思いをさせてしまうけれど、他人から命を譲り受けてまで生きながらえるくらいなら、病も衰弱も死も、すべてありのままに受け入れよう。ずっとそう思ってきた。

 だから今まで本格的な治療を受けず、薬や、一時的な処置だけで毎日をやり過ごしてきたのだ。両親に説得されて移植希望者に登録してはいるけれど、誰になんと言われようと、そうやって生きて、死んでいくつもりだった。

 ひとりの少年と、不思議な再会を果たすことさえなければ。

「ウィン――卓也、ちゃんとやってるかな……」

 半ば強引に置いてきてしまった彼のことが頭をよぎったとき、

「大丈夫?」

 ドアの向こう側から、優しそうな男性の問いかけが聞こえてきた。

「うん」

 甘えたように返事をする女性。

 カップルだろうか? と勝手な想像を膨らませる。大晦日なのに見舞いとは、ずいぶんとけなげな彼氏だ。

「いいなぁ……」

 思わず心の声が漏れる。

 もしも卓也と恋人同士だったら、自分たちもあんなやり取りをしたのだろうか。「おーい、お前の好きなもの買ってきたぞー」なんて言って、見舞いに来てくれただろうか。ふたりでそれを食べながら、ベッドの傍らに座って、色んな話を聞かせてくれただろうか。

「あっ、卓也、私の好きなものなんか知らないか」

 何気なく呟いてから、思い知らされたような気持ちになった。

 考えてみれば、彼の好きなもの、嫌いなもの、誕生日も聞いたことがない。こちらが一方的に知っている情報といえば、元野球少年だったことくらいだ。それと、いつだったか、交際経験があるだのないだのと、くだらない会話で盛り上がった記憶はあるけれど。 

 猫が時折人間に変化するという仕組みが多少ハンディーになっていたのかもしれないが、私たちは、一緒に過ごした時間のわりに、お互いのことをちっとも知らないのだ。

 心にぽっかり穴が開いたような切なさを感じて、ため息がこぼれたとき、

 ――すげぇな、お前。

 その穴を塞ぐように、最後の夜に彼が言ってくれた言葉がリフレインする。

 彼があのとき「すごい」という言葉にどんな想いを込めたのかは分からないけれど、「偉人」といったような意味ならもちろん違うし、「タフな人」という意味ならそれも違うと思う。

 私は生まれてからこの十八年間で、諦めることばかり覚えてきた。

 他の子たちのように走り回れないことも、父と離れ離れになったことも、中学時代に受けた嫌がらせも、全部最後は「しかたない」と受け流し、済ませてきた。

 むしろ、すごいのは彼のほうだろう。そんなふうに、諦めて流されることしかしてこなかった人間に、「生きたい」という強い欲望を芽生えさせてしまったのだから。不思議なこともあるものだ。一度はもう会いたくないとまで願った相手なのに。

 彼と新たな関係を築いたことで、私は生きる喜びや楽しさ、幸せを知ったのだ。

 でも、頑張ろうと思ったときには、もう何もかもが遅すぎた。

 実は休学の相談を持ちかけたとき、医師からはなるべく早く入院するように勧められたのだが、どうか十一月七日までは待ってほしいと哀願あいがんしたのだ。

 当然ながらその場にいた全員が首をかしげ、そのときばかりは、慈悲深い父ですらも理解しがたい様子だったが、それでいいと思った。説明したところで信じてもらえるはずもないのだし、三ヶ月に一度訪れる大切な日のことは、私と彼だけが知っていればいいのだから、と。

 あのとき入院していれば……と考えたことがないと言えば嘘になるけれど、過ぎてしまったことはどうにもならないし、早めに行動したところで、結果が変わっていたかどうかも分からない。それに、彼と過ごしたあの一日は、間違っても無意味なものではなかったはずだ。あの日がなければ、彼との距離と気持ちが、あんなにも近づくことはなかっただろう。

 想いを確かめ合った夜、本当は訊こうと思った。彼が何を抱えているのか。でも、彼が正直に打ち明けてくれたとして、助けになれるとも限らなかった上、至福のひとときに水を差すような真似は、どうしてもできなかった。

 幸か不幸か、最近は病状が悪化している関係で移植の優先順位は上がっているようだったが、適合するドナーがなかなか見つからないという。医師からは、来年の春まで持つかどうか、と厳しい現実を突きつけられている。

 このままでは、本当に彼のもとへ帰れないかもしれない。でも、なんとしてもこの運命に抗いたいのだ。

「人生、何があるか分からないね……」

 波乱万丈の生涯を送ってきた老婆ろうばのような台詞が口をついたとき、ふと、頬が濡れていることに気づいた。

「あれ……?」

 しずくは次々とあごをつたって落ち、ひざに小さなシミを作っては消えていく。

「やだ、もう……っ」

 拭っても拭っても、あふれてくる。早く泣きやまなきゃ、と思えば思うほど止まらない。

 会いたい。彼に。胸が張り裂けそうなほど。

 彼と離れてからの私は、泣いてばかりだ。

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