いってらっしゃい


 *


 突然鳴り響きだしたオルゴール音で目が覚めた。

「びっ……くりしたぁ~」

 目を丸くすると、ちょうど同じタイミングで目を覚ましたらしいふうかが、枕もとに置かれたスマホを小慣れた手つきで操作し、音楽を止める。

「ごめんごめん。消灯する前に、こっそり目覚ましをかけておいたのです」

 おどけたように言った彼女につられ、スマホに表示された時間を見やれば、日付が変わるまで十分を切っていた。

「最後の最後まで一緒にいたくて。本当は、起きてるつもりだったんだけど……」

 気恥ずかしそうに言い添えられた言葉に、もう一度キスの雨を降らせたい衝動に駆られる。が、ぐっとこらえて、代わりに額をつき合わせるようにした。

「よしっ、熱は上がってなさそうだな」

 運はまだ自分たちの味方をしてくれているようだ。

 すると、彼女は安心したように頬を緩めた。

 この笑顔を、守りたいと思う。

 もちろん、家族の気持ちも分かる。けれど、もうどんなに手を尽くしても動かない自分の体と、大切な人の未来を天秤にかけたとき、やっぱり俺は……

「次にこの姿で会えるのは、来年かぁ……」

 額を離して呟く。

 今日で季節がひとめぐりしたわけだから、次に人間の姿に戻れるのは春――年が明けてからということになる。同じ三ヶ月のはずなのに、年をまたぐという、たったそれだけのイベントが追加されるだけで、とてつもなく長い気がするのはどうしてだろう。

 そう思ってひとりで萎えていると、

「そのことなんだけどね、私、来年の春はここにいられるか分からないの」

 ――彼女が、なんでもないことのように言った。

 すぐには理解できなかった。正確に言うなら、脳が考えることを拒絶した。

「えっ……? それって、どういう……?」

 うまく働かない頭でどうにか尋ねると、彼女は告げる。明るいのに、どこかロボットのように無機質な、感情のこもっていない口調で。

「明日から入院するんだ。――ちょっとでも長く生きられるように」

 ちょっとでも長く生きられるように――ちょっとでもながくいきられるように――チョットデモナガクイキラレルヨウニ――

 後半部分が妙にこだまして思考力を奪い、頭の中が真っ白になっていく。気が狂いそうだった。

「そんなこと……そんなこと言うなよ……」

 震えてかすれた声で訴えた。頼むから、お願いだからそんな、死ぬ前提みたいなことを言わないでくれ、と。

「ごめんね……」

 彼女も俯いて唇を震わせる。

 重要な事実を黙っていたことに対してなのか、それとも余生が短いことに対してなのか、何に対して謝っているかは定かではないけれど、その一言でやっと、彼女の声が哀しみを帯びた。

「ふうか……」

 空っぽの頭で彼女の名前を呼んだとき、やにわに、強烈な眠気に襲われる。春以来に体感する、タイムリミットだった。

 もしや彼女は、ここまで計算済みだったのだろうか。

 ――最後の最後まで一緒にいたくて。

 彼女が言った最後と、自分が思っていた最後は、根本的に違っていたのかもしれない。

 俺は次第に、否応いやおうなく、眠りの渦へ引きずり込まれていく。

 意識を失う直前、彼女の唇が「だいすき」と紡いだ気がした。


 *


 目が覚めると、猫の姿に戻っていた。

「おはよう。ウィン」

 優しい声に、ふと視線を移す。

 すると、大切な人が穏やかな顔でこちらを見つめていた。

 優しさで何かを覆い隠しているような表情を見た瞬間、昨夜の幸せな気持ちも、もどかしさも、かなしみも――すべてが鮮明に思い起こされた。

 ふうか……

 胸の奥底から湧き上がってくる感情を必死にこらえながら、挨拶を返すつもりでひと鳴きすれば、そっと頭を撫でてくれる。

 彼女は布団を畳んで片づけると、そのまま部屋を出ていこうとした。

 あわてて背中を追う。

「お願い。今日はここにいて」

 彼女は懇願するようにそう言ったけれど、押し切って隣に並んだ。

「もう。――離れがたくなっちゃうじゃない」

 そんな呟きも、聞こえないふりをして。


 それからは、朝ごはんを食べる彼女の横でキャットフードをかじって、足もとで緩くしっぽを振りながら、歯磨きが終わるのを待った。

 着替えのときは……ちゃんと後ろを向いた。

 支度を整えた彼女は、玄関の前に立ち、しゃんと背筋を伸ばしてこちらを振り返る。

 入院するからだろう。今日は母親の他に、大きな荷物を持った父親も一緒だ。

「いい子でね、ウィン」

 しゃがんで軽く鼻先をつつかれた後、喉もとを撫でながらそう言われ、猫らしくゴロゴロと喉を鳴らして返事をする。それだけでは足りなくて、お腹を見せてもっともっとと催促した。この感触を、けっして忘れないように。

 存分に要望に応えてくれる手は、ほんのり熱い気がした。朝から妙に物静かなのは、気持ちの問題だけでなく、体調のせいもあるのかもしれない。奇跡は、そう長くは続かないだろう。

 ひとしきり撫でてから、ふうかは覚悟を決めたように、「よしっ!」と立ち上がった。

 本当は、彼女の足にまとわりついて最後の抵抗をしたいくらいだったけれど、そんなことをしたところで困らせるだけだ。離れ離れになる事実がくつがえるわけじゃない。

 久々に見る、三つ編みおさげ姿の彼女。彼女がこの髪型にするのは、学校だったり、一緒に行った海だったり、どこかへ外出するときだけ。つまり、元気である証だ。――いつもなら。

 玄関で靴を履く背中に、心の中で尋ねてみる。

 ――こういうときって、なんて言うのが正解なんだろうな。元気じゃなくて入院するんだから、元気でな、はおかしいし。あっ、そっか。いってらっしゃい、だな。また帰ってくるんだから。そうだろ? 終わりじゃないよな? なぁ、ふうか。

 誰にも届かない未練がましい呟きの後、最後に二、三度鳴いてみたけれど、彼女が再びこちらを振り向くことはなかった。

「留守番、頼んだわよ。ウィン」

 母親のそんな言葉を合図に、再びゆっくりと立ち上がる彼女。

 父親が玄関のドアを開け、去っていく彼女。

 悲しくても、涙が出ない動物でよかった。

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