――そろそろ、答えが出たんじゃないのかい?


 それからは、隣に横たわり、他愛もない会話を挟みながら、ふうかの肌にけっして重ならないキスを何度も落とした。

「なぁ。お前、コンタクトにしねぇの?」

「うーん、目に異物を入れるのはちょっと怖いかも。なんで?」

「そっちのほうが絶対かわいいのに、と思ってさ」

 ようやく冷却シートとさよならできた、かわいらしい額に。

「あとさ、お前にとって三つ編みが大事なのは分かってるけど、もうちょっと今風にアレンジしたほうがいいぞ。あれじゃ、昭和そのまんまだから」

「さっきからやけに細かいなぁ。しゅうとみたいだよ?」

しゅうとめって言わなかっただけ褒めてやる」

 そばかすだらけだけれど、白くなめらかな頬に。

「――好きだ」

「――知ってる」

「普通そこは『私も』とかだろ? かわいくない」

「なによ、さっきから。かわいいとかかわいくないとか。っていうか、その古くさい価値観は捨てたほうがいいとおも――」

 そして、これまで誰にも汚されたことがないはずの、桜色の唇に。

 キスするたび、ふうかは小さく身をよじらせ、熱っぽい吐息を漏らす。

 もちろんそれ以上のことには及ばなかったけれど、俺にきちんとした体があったのなら、このまま結ばれていてもおかしくはなかっただろう。

「卓也、あのさ」

 甘い空気の中、ふいに彼女があらたまった口調で名前を呼んだ。まるで、重大なことを切り出そうとしているかのように。事実、前置きもついている。

「んー?」

 なるべく身構えないよう、やわらかな声を意識して尋ねたが、

「……やっぱいいや。なんでもない」

 彼女は何をためらったのか、自分から話題を引っ込めた。

 モヤモヤするが、無理やり聞き出すような真似はしたくない。よりによって、こんなときに。

「なんだよそれ。一番気になるやつじゃん」

 呆れたように返して、頬に何度目かのキスをしたとき、かすかな湿り気と塩味を感じた。――涙だ。

「……なんで泣いてんだよ」

 尋ねると、彼女はその事実に初めて気づいたらしく、あわててしずくを親指の腹で拭いながら、困ったように苦笑した。

 そういえば、ずいぶんと長い間そばにいるけれど、彼女の泣き顔を見たのはこれが初めてのような気がする。一緒に暮らすようになってからこれまでも、泣きたくなることなんて数えきれないほどあっただろうに。

 高熱や吐き気に苦しめられても、突然の発作に襲われても、涙を流すことはけっしてなかった。もう嫌だと投げ出すこともなかった。

 そんな強い心を持つ女の子が、今、目の前で泣いているのだ。

「これはね、嬉し泣きと悔し泣き半分ずつ、ってところかな」

 言葉の意味するところが分からずきょとんとすれば、彼女はますます切なげな顔をする。

「この瞬間はとっても幸せだけど、でも、なんだって今なんだろうって。どうしてもっと早く、人間として触れ合えるうちに、あなたがこんなにも優しくて純粋で、素敵な人だって気づけなかったんだろうって。私たちはちゃんと、出逢ってたのに」

 同じ気持ちだ、と沁み入るように思った。

 涙に濡れた言葉は、まさに俺自身の気持ちをも代弁してくれていた。

 当たり前のことだが、人には色々な面がある。そして自分、相手の心持ちや考え方によって、善にも悪にも映る。根本から相性が合わない者もいるだろうけれど、あの頃の自分たちはただ、たまたま互いの嫌な部分ばかり感じ取ってしまって、受け入れられなかっただけなのだ。もったいないことをした。

「……すげぇな、お前」

 様々な感嘆が詰まった一言を漏らすと、彼女はその意味を図り兼ねるように、曖昧に微笑んだ。

 ――たまらなく、もどかしい。

 神なんてろくに信じていないけれど、本当に存在するというのなら、「この性悪め!」と大声でののしってやりたい。

 もっと早くに彼女の繊細さやあたたかさに気づいていれば、道を踏み外さずに済んだだろうか。違う未来もあっただろうか。

 そんなふうにむなしくなる一方で、こうして互いのディープな内面を知り、惹かれ合ったのは、あの日、笑ってしまうほど馬鹿げた最期を迎えたからこそなのかもしれない、とも思う。

 俺が転生の道を選んだことで、役目を終えたはずの歯車が再び噛み合い、動きだしてしまった。

 もしふたりともが無事に生きていて、それぞれ違った人生を歩んでいたとすれば「中学時代のいじめっ子、いじめられっ子」という、薄っぺらで疎ましい関係にすぎなかったかもしれない。

「私ね――」

 まだ何か言おうとするふうかの唇を、俺は少し強引に制した。言葉にすればするほど、やるせなさが募っていく気がして。

「もういいから」

 本当は塞がれてなどいないはずなのに、彼女は押し黙って、甘えるように寄り添ってくれる。

 この世界はいつだって、ひどく理不尽で残酷だ。


 *


 サーモンピンクのカーテンをめくったとき、ふと気づく。

 ――あぁ、いつもの夢か。

 でも、少しだけ違った。

 いつもなら上機嫌で自分を待ち構えていたはずの母が、今日は浮かない表情をしていたのだ。

「体、しんどいのか?」

 心配になって尋ねると、母は暗い表情のまま、諦めたように弱々しく首を振った。

「いいや。体調はむしろいつもよりいいくらいなんだけどね。ただ色々、なんだかなぁ……と思っちまって」

 骨と皮だけになった体。昔からときに女の命と言われる髪も、薬の副作用ですっかり抜け落ち、常に帽子が手放せない。

 この光景は、ドラマやアニメの中の絵空事ではないのだ。

 あらためてそう思ったら、とても直視できなくなって目をそらす。

 その瞬間、オーバーテーブルの上に、例の「アレ」を見つけた。

「なんだこれ? ドナーカード?」

 つまみ上げようとすると、母はあわてて手のひらで覆い隠し、もうないに等しいだろう力を懸命に振り絞って押さえ込んだ。

「や、やめとくれよ、こんなもの。がんだらけの臓器なんて、どうせ使いもんにならないんだから」

 ――あれ? それ、俺の台詞じゃなかったっけ?

 心のどこかで違和感を覚えながら、

「分かんねぇじゃん、そんなん」

 小刻みに震えている母の手を振り払う。それはあまりにも呆気なくて、やってしまってからちょっと申し訳なくなった。

「ほら、この『眼球』とか、まだ健康かもしれねぇし」

 言いながら、提供できる臓器のひとつを指さす。

「無理にとは言わないけど、書くだけ書いとけば? 減るもんじゃねぇし、使わなかったら捨てるだけだろ? 手伝ってやるからさ」

 親に説得された子供のように、母が小さくうなずいたとき、何か大事な賭けに勝ったような気分になった。

 ――いいじゃん。いいじゃん! なんか今日の俺、前向きじゃん。


 薄暗い部屋。寂しげな音を立てて、窓ガラスを曇らせる雨。

 その傍らに置かれた、棺。

「結局使わなかったな……ドナーカード」

 ぽつりと呟いて、おもむろに歩み寄る。

 ――おい、見ないほうがいいぞ。

 自らが低い声でそんな忠告をしてきた気がしたけれど、それでも足を止めなかった。

 そっと中を覗き込むと――母が、すべての苦しみから解放されたように安らかに眠っていた。

 思い出した。最後に見た母の顔は、こんなにも穏やかなものだったと。

 ――そろそろ、答えが出たんじゃないのかい?

 ふいに優しげな問いかけが聞こえて、顔を上げれば、ガラス越しに、雨雲の隙間から抗うように顔を覗かせる太陽が見えた。

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