「……お前が悪いんだからな」


 *


「ごちそうさまでしたー」

 俺は、満足そうに言ったふうかの手の中にある器を見て、目を丸くした。

「すげぇ……完食した」

 やわらかめのお粥が盛られていたそれは、米粒のひとつも残っておらず、見事に空っぽだ。

「そんなに一気に食って大丈夫か? また吐いたりしないよな?」

 心配になって尋ねると、

「えへへ。大丈夫。ちゃんとゆっくり食べたもんっ」

 彼女はちょっぴり自慢げに答えた。

 その顔は血色もよく生き生きとしていて、数時間前まで吐き気に苦しめられていた人だとは到底思えない。

 しばらくして食器を片づけにきた母親とも、

「ちょっと、本当に大丈夫なんでしょうね!?」

「だいじょーぶだいじょーぶ」

 と似たようなやり取りをしていた。

 当然と言えば当然の反応だろう。

 その後、念のため三十分ほど食休みをさせたが、特に変わった様子はなく、体温も三十六度六分と問題なしの平熱をキープしていたので、久しぶりにきちんと風呂に入ることになった。

「湯冷めしないようにな」

 準備を整え、風呂場へ向かおうと立ち上がりかけた背中にそう言ったら、

「――ねぇ」

 彼女は、ぽつりとこぼして物言いたげに振り返り、あろうことかそのまま正座する。

「な、なんだよ」

 仰々しい態度に思わず身構えると、まっすぐにこちらを見据えて、告げた。

「どこにも、いかないでね……?」

 切実な口調と、眼差し。

 そんなことあるわけねぇだろ、と笑い飛ばせたらよかったけれど、前科があるのでその権利はない。

 だから、

「大丈夫だ。こんな貴重な日、絶対に無駄にしたりなんかしない」

 胸を張って、ふうかと同じように至極真面目な顔で答えた。

 貴重な日――それは、人間に戻れるという意味だけではない。

 ふうかがこんなに元気でいられるときも、そう多くはないだろうから。

 なんて、むなしくなるからあまり考えたくはないけれど。

 それに、あんな心苦しいすれ違いはもうたくさんだ。充分思い知った。

 俺はバカだけど、一度味わった苦みや痛みはしつこく鮮明に覚えている。

 心に刻みさえすれば、同じ失敗は繰り返さない。絶対に。

 するとふうかは、こちらの気持ちまで察したように、少しばかり儚げに微笑み、

「すぐ戻るから」

 と言い置いて、今度こそ風呂場へ向かう。

 彼女の軽い足取りに、俺はほっと胸を撫でおろした。


 *


 よく眠っている。

 俺は月明かりに照らされた部屋の中で、夕方と同じように、ふうかの手に自分の手を重ねながら、やわらかな吐息を漏らす。

 彼女は風呂から上がった後も信じられないくらいに元気で、危惧していた発作も起きなかった。

 消灯してからも、「どうしても寝なきゃダメ?」と駄々をこねる始末。あまりのかわいさにだらしなくとろけそうになるのを必死にこらえながら、「ダメダメ。ちゃんとそばにいるから。な?」とどうにかなだめ、優しく背中を叩いてやると、相変わらずものの数十秒で寝息を立て始めた。数ヶ月ぶりに、深い眠りの底に沈んでいることだろう。

 布団の上で波打つ長い髪にふと、最後に彼女の三つ編み姿を見たのはいつだったか、なんてぼんやり考えた。

 険しさの消え去った、どこか幼げにも見える寝顔。薄くきれいなまぶた。そこから覗く長い睫毛。――桜色の唇。

 自分が彼女に恋焦がれているという贔屓目ひいきめを抜きにしても、あの厚い眼鏡を外して髪をおろし、控えめに化粧なんかすれば、それなりにモテたのではないかと思う。この無防備な姿は、自分だけにさらけだしてほしい、という密かな独占欲もあるけれど。

 そう。彼女は、かわいいのだ。

 気づけば、おもむろに顔を近づけていた。

 ――どうせ重ならないんだから、いいだろ。

 男の中にすみつく悪魔が、そんなことを囁いたけれど、

 ――いやいや、さすがにそこはまずいって。

 直前に理性が働いて、少し右横へシフトする。

 そして……

 白くなめらかな頬に、そっと、そっと口づけた。触れられないはずなのに、そのやわらかさをやけにはっきり感じた。

 息が止まるほど驚いたのは、かすかな余韻に浸りながら顔を上げた直後。

 彼女が見計らっていたかのように、ゆっくりと目を開けたからだった。その表情に、寝起きの雰囲気はない。

「っ……! お前、起きてっ……」

 どうやら彼女のほうが一枚上手だったようだ。

 やってしまった。しかも気づかれてた。

 様々な恥ずかしさに、顔面が、噴火寸前のマグマごとく、急激に熱くなる。

「もういっかい」

 その上、彼女が真顔でわけの分からないことを言い出すから、思考回路もショート寸前だ。

「はぁ!? なに言ってんだよ。寝ぼけてんのか!? からかってんのか!? 熱に酔ってん――」

 あ、今こいつ、熱ないんだった。

 一瞬冷静になった隙をつくように、唇にやわらかな心地よさを感じた。

 その感覚は、かすかな余韻を残しながら、ゆっくりと薄れていく。

「……」

 これは、現実だろうか。いや、たぶん、夢だ。

「いい? 卓也。これは罪よ。私の大事な、だーいじなファーストキスを奪った罪」

 あくまで淡々と話す彼女に、

「キ、キスっつったって……ほっ、ほっぺだし……」

 しどろもどろになりながら、まるで小学生みたいな言い訳をする。

「ほっぺだろうと唇だろうと、キスはキスでしょう? 私、どのみち初めてだったんだし、言い逃れはできないよ? ファーストキスは人生で一度きりなんだから」

 ――つーか、お前だって今したじゃんッ! 嫌じゃなかったなら別にいいじゃんッ!

 そう叫びたかったけれど、口にしたら、今度こそ恥ずかしさでおかしくなってしまいそうだった。

「罰として、私が満足するまでキスし続けなさい」

 彼女は命令口調で告げる。

「罪に罪を重ねてどーするんですか……」

「刑罰は私が決めます。拒否することは許しません」

 その態度は、問題児の生徒を説教する教師のように、やはりどこまでも冷静だ。

「なに? そんなにイヤなの?」

 誘うような眼差しと微笑みに、何も返せなくなる。

 嫌なわけがない。拒絶されなかったことにほっと安堵し、遠回しのおねだりに、舞い上がってすらいる。

 ただ、ちょっぴり悔しいだけだ。なんだか、まんまと乗せられている気がする。

「……お前が悪いんだからな」

 俺は拗ねたように呟いて身を乗り出し、ずいぶんと痩せてしまったはずなのに、意外にもふくよかなふうかの胸に、静かに顔をうずめた。

 この幸せすぎる一日が、永遠に続けばいいのにと、そんなありふれたことを願いながら。

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