気がかり
*
うららかな春先、雲ひとつない晴天の日に、私は退院を迎えた。
年が明けて間もなく、
手術は無事成功し、予後も良好だったため、それから三ヶ月と少しという比較的短い期間で退院することができた。
我が家へ向かう車内、前の運転席と助手席に座った父と母は、さっきからしきりに楽しそうに話している。そんなふたりの様子に、ついに十年越しの約束が果たされるときがきたのだと嬉しくなった。
換気のために少しだけ開けている窓からは、風に乗ってほんのり春の香りが運ばれてくる。
入院している間に、また季節がめぐったのだ。
何気なく思ってから――自分の思考に違和感を覚えた。
私、どうして今、「また」なんて思ったんだろう? まるで、以前から季節の変化を意識していたみたいに。
実を言うと、私にはひとつ、なぜだかとても気がかりなことがあった。
年が明けたあたりから、何かがすっぽりと抜け落ちている。
それがなんなのかは分からない。ただ、とても大事なことを忘れている気がする。
手がかりになればと思い、担当医にドナーについて尋ねてみたが、同じ年代の男性だという程度のことしか教えてもらえなかった。ドナーや
条件つきで面会を許可している国もあるらしいが、日本で認められているのは、手紙の交換のみだという。
両親の目もあったのでさすがに行動には移せなかったが、本当は土下座してでも頼み込みたかった。なぜそんなに必死になっていたのか、自分でも説明できない。ただやっぱり、そうしなければいけない気がした。
車窓に映った自分の姿を見て、はたと気づく。
そうだ。いつもおさげだった三つ編みをひとつにし、結い方を緩めにしたのも、学校に復帰したらコンタクトに変えてみようかな……なんてぼんやり考えているのも、誰かが「そっちのほうがかわいい」と言ったからだ。
そう、誰かが。
「桜並木だよ。ふうか」
父の声で、再びはっと現実へ引き戻される。
見ると、アーチのように立ち並ぶ大木と、薄桃色の花びらが、窓の外を彩っていた。
「ちょうど満開みたい。きれいねぇ……」
幻想的な風景に、助手席の母がうっとりと漏らす。
美しく、繊細に舞う花びら。
桜が桜として輝いていられる期間は、ほんのわずかだ。
一年かけて準備するのに、咲いた瞬間から散り始めて、一週間も経てば、あっという間に見頃を過ぎてしまう。
でも、目の前の光景に妙に惹かれ、なんだか泣きたいほど胸がしめつけられるのは、その儚さのせいばかりではない気がする。
我が家に到着し、自室に足を踏み入れてみると、物足りない、と感じた。
いや、違う。
いないのだ。
いつもここにいたはずの誰かが、いない。
私は記憶の糸をたぐり寄せるように、部屋の中をじっくりと歩き回る。
そうだ。
あの、中庭に面した窓際で、よく空を眺めていた。
同じ布団の中で、ふたり寄り添って、ときに背中合わせで眠った。
体調不良で苦しめば、必ずそばにいてくれた。
いつも一緒なのに、いつもどこかもどかしくて。
辛くて、すれ違って、また確かめ合って。
あなたは――
「だれ……?」
呟いて窓辺で立ち止まったとき、ふと軽やかな音がした。何かを蹴飛ばしたようだ。
なんの気なしに拾い上げる。
鈴のついた赤い、
「首輪?」
動物なんて飼ったことがないはずの我が家に、どうしてこんなものが転がっているのだろう。
怪訝に思い、詳しく観察してみようと回して側面を変えてみると、何やら文字が書かれている。
我が家の住所だ。そして、すぐ下には、
『ウィン』
一瞬、息が止まる。
記憶がつながって、走馬灯のように脳裏を駆けめぐった。
「……卓也」
その場に崩れる。
彼の笑った顔。拗ねた顔。落ち込んだ顔。
ふうか、と優しく呼ぶ声。低く太い怒鳴り声。意外に幼かった泣き声。
自分の無力さに悩み、苦しみながらも、一番近くで支え続けてくれた彼。何度も何度もキスをし、こんな私を好きだと言ってくれた彼。生きる希望をくれた彼。
涙があふれた。
「どう、してっ……」
こんなに大事なことを、片時でも忘れていたのだろう。彼はいったい、どこへ行ってしまったのだろう。
とても、とても、大切な人なのに。絶対に忘れられないと、そう強く思ったはずなのに。
「っ……っ……」
会いたい気持ちを吐き出すように、ひたすら泣きじゃくっていると、
――なーに泣いてんだよ。言っただろ? ここにいるって。
胸の奥から、そんな声が聞こえた気がした。
つと、涙が止まる。
もうひとつ、重大なことを思い出した。
私に命を分け与えてくれたのは、いったい誰なのだろう? そう、あのとき――彼と涙ながらに、息が苦しくなるほど熱いキスを交わした最後の夜に願ったことは、天まで届いただろうか? 医師が言った「同年代の男性」とは彼のことなのだろうか? ドナーが見つかったタイミングから考えて、可能性は……
答えの出ない問いの沼にはまりかけてはっとし、私はゆったりと首を横に振る。
「大事なのはそこじゃなかったね、卓也」
もちろんそうだったら嬉しいけれど、自分に提供された心臓が誰のものであっても、記憶を取り戻した以上、彼と過ごした日々が失われるわけではない。
彼が私の世界を変えてくれたこと。それだけは揺るぎない事実だ。
彼はちゃんと、
私は目尻を拭うと、窓を開け放ち、空に向かって思いきり息を吸い込んだ。
「私もう、死んでも忘れないからー!」
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