「本当に、大切なのはね――」
*
「ちょいとお前さん、これ、書いておくれよ」
病室に入り、ベッド周りのカーテンをめくって顔を見せるや否や、母は待ってましたと言わんばかりに切り出した。
今日はやけに上機嫌だ。心なしか顔色もいい。
「は? 書く? 何を?」
俺は矢継ぎ早に呆けた疑問の声を返して、丸椅子に腰かける。いったい、どうしたというのだろう。
「これだよ、これ」
母がそわそわと体を起こし、オーバーテーブルの上に置いたのは、一本のペンと――小さな緑色のカードだった。
「なんだこれ? ドナーカード?」
そう言って訝しげにカードを手にした俺は、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。移植できるすべての臓器に不格好な丸が付けられ、本人署名の欄に書かれた名前は、まるでミミズが這ったよう。
ほんの数ヶ月前までは、お手本のように達筆な人だったのに。
「がんだらけの臓器なんて、使いもんならねぇだろ」
母のがんは、乳房だけでなく、すでに体のあちこちに転移していた。うずく心をごまかすため、わざと突っぱねるようにカードを机の上に放り投げる。
ここまできて、現実を受け入れられないほど子供じゃない。だけど、自分の気持ちに蓋をして、明るく振る舞っていられるほど大人でもなかった。
すると、母は「まあ。失敬な子だねぇ。まだ分からないじゃないか」と不満げに漏らす。
「いいからさ、ここにサインしておくれよ」
そうかと思えば、ご機嫌を取るようにニコニコとしながら「家族署名」の欄を指さした。
笑顔を見せたのなんて、いつぶりだろう。今日は本当に調子がいいようだ。
「はぁ? 嫌だよそんなん。俺、字ぃ汚ねぇし、そういうのは姉ちゃんとかに頼めって」
あからさまに顔をしかめると、はっきりと声になるほど深いため息をつかれる。
「……情けないねぇ。自分の名前も書けないのかい? お前は」
策略だと分かっていながら、つい頭にきてしまう。母親には勝てない。
「あ~もう、うるせぇな! わぁったよ。書きゃあいいんだろ、書きゃあ!」
乱暴に吐き捨て、カードとペンを取り上げる。
母のしたり顔が癪に障ったから「っていうか、いいのかよ。俺まだ未成年だぜ?」なんて言いつつ、今までにないくらいめちゃくちゃに殴り書きしてやった。
――しと。しと。
寂しげな雨の音が響く、薄暗い和室に呆然と立ち尽くしていた。
俺は、何をしているのだろう。
しずくのしたたる窓際には、
おもむろに歩み寄る。
「やっぱ使わなかったじゃん……あんなカード」
むなしく呟いて中を覗き込み――目を見張った。
「なんだよ、これ……」
そこに眠っていたのは母ではなく、彼女だったから。
――さぁぁぁ。
とたんに雨脚が強くなり、どこからか、遠雷が聞こえる。息が、できない。
「冗談、だよな……? なぁ……」
激しく乱れる呼吸を必死に抑えながら呼びかけても、彼女はすました顔で眠っている。
「ふうか……ふうかっ……!」
――ざぁぁぁ。
棺を叩いても、揺らしても、彼女は目覚めない。……嘘だ。嘘だこんなの。嘘だと言ってくれ。
俺は棺にすがりながら、力なくその場にへたり込むと、声の限りに叫んだ。
*
「――や、――くや、卓也ッ!」
誰かの声で、はっと目覚める。
いつの間にか部屋の中は明るく照らされ、目の前には、心配そうに眉をひそめた彼女がいた。ふうかが、いた。
ふうか。たしかに、ふうかだ。
「大丈夫? うなされ――」
「……っ!」
気遣う彼女の言葉をも遮り、考えるより先にすがっていた。
込み上げてくる安堵感とともに視界が滲み、とめどなく熱いものがあふれだす。――よかった。本当によかった。
「もう、もう……」
帰ってこないかと思った。
たった一言でさえ、幼げな嗚咽に変わるばかりで言葉にならない。
彼女はそんな胸の内を察したのか、優しげな吐息を漏らし、触れ合わない手でなぐさめるように頭を撫でてくれた。
「ちょっと発作が起きちゃってさ。それ自体は薬飲んですぐおさまったんだけど、意識が朦朧としてたみたいで、心配したパパが救急に連れてってくれたんだ。たぶん、ママだったら帰ってこられなかっただろうから、偶然に感謝しなくちゃ。あと、パパにも」
そう言って、ふふっと笑みをこぼした後、「ごめんね」と静かに呟く。
「私、卓也が落ち込んでるって分かってたのに、自分のことで精一杯になっちゃって。それに、発作のせいで帰ってくるのも待っててあげられなかった」
「な、んで……」
そんなふうに謝るんだ、と言いたかった。自分のことしか考えていなかったのは、俺のほうなのに、と。
でもやっぱり、止まらない涙に呑み込まれてしまって。
彼女は相変わらず、けっして触れない髪を
「ねぇ、卓也」
そっと諭すような声が、かすかに鼓膜をくすぐった。
「あなたは、自分を無力だって責めているかもしれない。もちろん、その気持ちもわかる。私も、みんなにできて自分にはできないこと、たくさんあったから。だけど、大事なのは、何ができるとか、できないとか、そういうことじゃないと思うの。本当に、大切なのはね――」
そこで、ゆっくりと体を離す。状況の変化に、自然と涙が止まった。
彼女は情けなく濡れているだろう俺の顔をじっと見つめ、それからふわりと微笑むと、
「ここ、だよ?」
ちょっといたずらっぽく語りかけて、こちらの胸に、白く華奢な手のひらを押し当てる。透けた胸もとは、わずかながらも、たしかにそのぬくもりを受け止めた。
あたたかい。
「たとえ触れることすらできなくても、今みたいに、ただ私のことを想って、そばにいてくれたら、それだけで充分頑張れるから」
――再びあふれだす前に、手荒に抱きつく。あぁ、どうして君はいつも、そうやって……
「これ以上頑張んな、バカ……」
震える唇で伝えて、また崩れた。子供のように泣きじゃくった。
すり抜けてしまうのも構わずに、彼女の少し熱い体を、きつくきつく抱きしめようともがきながら。
「もう。そんなに泣かないでよ」
彼女は困ったように苦笑して、そっと
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