「大事な人」
*
私は、すぐ隣にいる彼の心地よさそうな寝顔に、顔をほころばせた。
年甲斐もなく号泣して疲れきったのか、部屋の電気を消して布団に横たわるなり、彼はすっかり眠り込んでしまったようだ。
同じ布団の中で身を寄せているのに、互いの肩が触れ合うことはない。そう思うと、卓也の苦悩も分かる気がした。
胸の奥をじわりと痛めつけるようなむなしさを覚えながら、今日のうちに帰ってこられて本当によかった、とあらためて思う。でなければ、彼とすれ違うばかりでなく、彼を不安と混乱の
目覚めたとたんぎゅっとすがり寄ってきて、たがが外れたように嗚咽を漏らし始めたときには、本当に驚いた。
よほどひどい悪夢でも見ていたのだろうか。数年前にがんで母親を亡くしたという話だから、人がいなくなることに対して
なんにせよ、あのまま放置していれば、彼は精神的に壊れてしまっていた気がする。大袈裟でなく、そんな心配をしてしまうほど激しくて、切なげな泣き方だった。
彼のもろくて繊細な部分に、初めて触れた気がした。
彼はきっと、人目に映るよりずっと純粋なのだと思う。だからこそ、穢れやすくもあったのだ。
あるいは、自ら毒を発する花や虫のように、尖って周囲を寄せつけないことで、潰れそうな己の心を必死に守っていたのかもしれない。
「……かわいい」
どこか幼げな寝顔に愛しさが込み上げてきて、そっと呟くと、
「……誰がかわいいって?」
彼がぼそりとこぼして目を開け、こちらに寝返りを打つ。
「起きてたんだ」
少し驚きながら尋ねると、
「お前が帰ってくるまでずっと寝てたんだから、そんなに寝られねぇよ」
彼はちょっと不機嫌そうに答えて、
「なぁ。お前、本当にふうかだよな? ちゃんと生きてるんだよな?」
突然、拍子抜けしてしまうような質問を投げかけてきた。
思わず目を丸くする。
「大丈夫? あんまり泣いたから、頭おかしくなっちゃった?」
どう対処すべきか決めかねて、結局少しばかりおどけた反応を返すと、
「……違げぇし」
彼は呆れたように言って、
「たまに、どうしようもなく不安になるんだよ」
おもむろに手を伸ばした。――その親指は、頬に触れる寸前で、諦めたように止められる。
「こうやって触れようとしても、すり抜けちまうし。あんなことがあった後だと、余計に」
苦笑するように細められた瞳は、とても切なげだった。
「お前もどうせ寝る気ないんだろ? だったら――」
彼は再び仰向けになり、顔だけをこちらに向けると、ふっと含み笑いをする。
「じっくり話してくれよ。俺がいない間に何があったのか。んで、ちゃんと元気になって帰ってきたんだって証拠をさ」
お察しの通り、半年前のように眠りの魔法が発動しない限りは、できるだけ起きているつもりだった。ただでさえ、体調不良のせいで三ヶ月に一度の貴重な時間を浪費しているのだから、これ以上はごめんだ。
「え~、しょうがないなぁ……」
ちょっとからかいたくなって、面倒くさがるような態度を取ったけれど、病院で治療を受けたおかげか、今は微熱がある程度で体も軽い。それくらいお安い御用だ。
うんと詳細に話してあげよう。彼が、きちんと安心できるように。
*
――つめたい。
気がつくと、水の中に小さな足を浸していた。きれいに澄んで、よく冷えた水。そこには、まだあどけなさの残る自分の顔が映っていた。
「ふうか」
優しげな声に振り向くと、父がすぐ傍らで屈み込んでいた。
なあに? と訊こうとした瞬間、父はいたずらっぽく笑って少量の水を両手ですくい上げ、
「えいっ!」
こちらに向かって勢いよくそれをかけてきた。
「ひゃっ!」
小さなしぶきとなって顔を濡らした水は、冷たくてちょっとだけしょっぱい。それで分かってしまった。
――これ、ゆめだ。
私は今、夢を見ている。
まだ幼かった頃、夏に家族みんなで海に行ったときの夢。懐かしい思い出の、夢。
「それっ!」
反撃すべく父に同じ動作を返したとき、
「ふうかー」
少し遠くから女の人の声がする。
背後を振り返ると、砂浜に立てたパラソルの下で母が様子を見守っていた。
「いらっしゃい。髪、直してあげるから」
「はーい」
元気よく返事して駆け戻ると、麦わら帽子を脱ぎ、母のひざの前に行儀よく座る。癖のある髪に、細い指がするりと通された。
この日はいつも、普通の三つ編みと違って、おしゃれに編み込んでくれていたはずだ。
少しくすぐったくて、でも優しい。どんなに複雑な髪型にしても、絶対に痛くない。
母が髪を編み直してくれるこの感覚が、密かに好きだった。
「あーあ。汗と塩でベトベトよ? もう」
嘆くように言いながらも、その声はどこか楽しそうだ。
普段は手厳しい母も、このときに限っては、水に触れてはしゃぐことを許してくれていた。
背筋を伸ばして前を見ると、父が微笑みながら待ってくれている。
――私たち家族は、どうして変わってしまったのだろう。ずっとこのままがよかったのに。
白い日差しにきらめく藍色の海が、もう届かないことを暗示するかのように、眩しく滲んだ。
切なく幸せな夢から目覚めた私は、重い頭を持ち上げて辺りを見渡す。窓の外はすっかり夜に呑み込まれ、名前も知らない虫がつつましやかに鳴いていた。
卓也はまだ帰ってきていないようだ。
「ほんと、どこ行っちゃったんだろ……」
寝ている間に泣いていたのか、それとも高熱のせいか、目尻に滲んだ涙を拭いながら呟いたとき、はたと思い立つ。
そうだ。彼が帰ってきやすいように、窓を開け放っておこう。
心地よさに小さく息を吸おうとしたとき、ふいに胸の奥を乱暴に掴まれたような息苦しさを覚えた。
まずい、と思ったときにはもう手遅れだった。
呼吸が激しく乱れ、視界が狭まり、立っていられなくなる。
「……っ!」
それでも、苦しさと痛みに抗いながら這うようにして布団まで戻り、枕もとに置かれたスマホをタップする。ワンタッチでつながるようにセットしておいて正解だった。
できるなら、ポシェットの中の薬に手を伸ばしたいけれど、そこまでの余裕はない。
痛いよ。苦しいよ。どこにいるの? ――卓也。
心の中で彼を呼びながら、布団の上に力なく横たわり、痛む胸を押さえつつ応答を待っていると、
『もしもし?』
何度目かのコールの後、何も知らない父が和やかに応えた。
「……ぁ……ぁ」
ダメだ。言葉にならない。声すら出ない。
「ふうか……?」
父も異変を感じたのか、怪訝そうな一言を残し、通話を切る。
程なくして忙しない足音を立てながら部屋に入ってきた父は、状況を理解したとたん、一瞬動揺したように立ち尽くした。
が、すぐさま弾かれたように動きだし、布団の傍らでひざを折って、手早くポシェットから錠剤を取り出す。
そして、引きつったような呼吸を繰り返す私の上半身を抱きかかえるように起こし、それを口内に放ると、間髪入れずにペットボトルの水を含ませた。
私は、自分の呼吸を妨げていた痛みや苦しさが、生ぬるい水に流され、錠剤とともにゆっくりと溶けていくような感覚に陥る。
呼吸が穏やかになったのを確認してから、父は慎重に手を離した。
「大丈夫?」
横たわる私を見つめ、不安げに眉根を寄せて尋ねてくる。
うっすら微笑んでうなずいたものの、その父の声はなんだかぼんやりとしていて、うまく頭に入ってこなかった。
まるで水中にいるように、音が、光が、世界が遠い。
そう思ってしまうと、どんどん遠くなっていく気がした。
目の前がぼやける。父が心配そうに顔を覗き込み、手を振る。
「――うか? ――かー?」
たぶん――名前を呼ばれている。でも答えられない。
ふわりと体が浮いた。父に抱き上げられたようだ。
「どこ、い……」
どうにか口を動かすと、辛うじて「びょういん」というくぐもった響きだけが聞こえた。
父が歩きだし、体がわずかに揺れる。気がつくと、風が吹き抜ける窓のそばまで来ていた。父がガラスに手をかける。
――あ。そこは……
「だめ……そのまま……」
回らない
「その……まま……」
途切れ途切れに繰り返すと、分かったと合図するように今一度しっかりと私を抱き寄せ、窓を閉めることなく、電気を消して部屋を後にする。
私は、それと同時に気絶するように意識を手放した。
気がついたときには、薬品のにおいが染みついたベッドの上にいた。
「ふうか」
優しげな声に振り返ると、父が「よかった……」と心の底から安堵したように表情を崩す。
聞いた話によれば、数日にわたって続く高熱の影響か、はたまた直前に服用した発作止めの影響か、原因は定かではないけれど、軽い意識
「先生には念のためにって入院を勧められたけど……どうする?」
「だ、ダメっ!」
父の一言に、私はいまだ音もなく水滴を垂らし続けている点滴を倒さんばかりの勢いで、猛抗議した。
「今日は、今日だけは帰りたい! 帰らなくちゃいけないのっ!」
娘のただならぬ反応に、父は少々面食らったようだったが、すぐに目を細め、
「分かった。先生に話してくるよ」
なだめるように言って席を立つ。
父が病室から出ていくのを見届けてから、私は深いため息を漏らした。
このままここで朝を迎えるなんて考えられない。問題は、起きたその日のうちに解決しなくては。今回の場合は特に。
五分ほどすると、父が戻ってきた。
「点滴終わったら、帰っていいって」
その言葉に胸を撫でおろしつつ、私は口を開く。
「パパ?」
「うん?」
「……どうして、聞き入れてくれたの?」
尋ねると、父はやわらかに微笑み、当然のように言った。
「だって、たいした事情もないのにあんなこと言わないだろ? ふうかは」
おそらく母だったら、押し切られて終わっていただろう。
父の
*
「で、帰ってきたら卓也が窓際でうなされてたってわけ。ほんとにびっくりしたんだからね、もう」
私が軽く
「あ~、誰かさんのせいで泣きすぎて頭痛いんですけどぉ」
思い出したように言って、手の甲を額に当てる。
「先にいなくなったの卓也じゃんっ! そばにいてって言ったのに」
拗ねたような物言いに、わざと不満げに頬を膨らませて反論したら、ぐうの音も出なかったらしく「それは、ごめん……」と歯切れ悪く謝られた。
ほら、やっぱり素直だ。
ふと目が合い、どちらからともなくクスリと笑みを漏らす。
特別なことなんて何もないのに、なんだかすごく穏やかで満ち足りた気分だった。彼も同じ気持ちなのだろうか。そうだったら嬉しいな、と思う。
実は、わがままを聞いてくれた理由を尋ねた後に、父もためらいがちにこんなことを訊いてきたのだ。
「……卓也って、彼氏?」
仰天した。
仰天した後、点滴のおかげかずいぶんと楽になった体から、ころころと笑いがこぼれ出た。
なんでも、混濁する意識の中で、しきりに彼の名前を呼んでいたらしい。自分が思っているよりもはるかに、彼への不安が募っていたようだ。
それにしても、温厚で執着心なんて
「……笑うなよ」
気まずそうにしながらもむくれる父にひとしきり笑ってから、
「彼氏じゃないよ」
きっぱりと言ってやる。
それから、
「だけど、大事な人」
ぽつりと添えると、父は複雑な面持ちをしていた。
そう。彼とは間違っても恋人同士ではない。そんなふうに、万人に通じる単語で言い表せる関係なら、もっとずっと気楽だったのだろうけれど。
そんなことを思いながら、卓也とふたりでささやかに笑い合った後、
「あのさ」
彼が急に真面目腐った様子で切り出した。
「お前いつだったか、心臓を治すには移植手術しかないって言ってたよな? その移植する心臓って、どうすれば手に入るんだ?」
突然どうしたのだろうと、不思議に思いながらも、私は「えっとね」と自然な口調を返す。
「他の人から提供してもらうんだよ」
「他の人って、例えば?」
「うーん、臓器によっては事故死とか病死した人から提供されることもあるみたいだけど、心臓は脳死だけかなぁ……」
答えた瞬間、彼の表情が強張った気がした。――何かが、おかしい。
「でも、なんで?」
怪訝な雰囲気を悟られないよう、なるべくさらりと尋ねてみたが、
「――いや、ちょっとな」
彼は言葉を濁し、あわてたように「おやすみ」と背を向けてしまう。
動揺しているのは明らかだったけれど、あまりの
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